「新しくても変わらないもの」   

2018年3月4日

使徒言行録6章8-15節  

スエファノは論争に巻き込まれる。

相手は異国で生まれたユダヤ人。

自分のアイデンティティーを主張しなければ生活の場が保障されないもの。

その者達がステファノと議論で敗れたが納得がいかず偽証を仕立てあげる。

「この者はモーセの律法をけなし、神殿を破壊しようとしている」と。

これはかつて主イエスにも使用された偽証。

ただ、これは全くの偽証かと言えば、そうとばかりも言えないところがある。

主イエスは確かに神殿を壊せば三日でそれを建て上げる、と言われた。

安息日に人を立たせ歩かせている。

神殿を壊す。

律法を軽んじる。

そのように見えてしまうことを行ってもいる。


「神殿」「律法」異国から帰ってきたユダヤ人はこれを議題にすれば皆が関心を持つと知っていた。

彼ら自身も、そしてユダヤ人なら誰しもが大事にしているもの。

神殿・見えるもの。

律法・見えないもの。

この二つが民族のアイデンティティー、決して触ってはいけないものと思っていたい。


「見えるもの」「見えないもの」。

世に存在するものはこの組み合わせを持っている。

国も、組織も、家族も、個人も、この組み合わせを持ち、

それを他者から触らせまいと守っている。

アイデンティティーとは執着なのではないか。

私が固辞し、他者を排斥する。

この世界はアイデンティティーなくしては成り立たないのか。

アイデンティティーの崩壊は、存在の消滅なのか。


主イエスの言葉、ステファノの言葉は人々にはアイデンティティー否定の言葉に聞こえた。

だがそれは浅はかな聞き方。

アイデンティティーなしでも、

「見えるもの」「見えないもの」それがなくとも存在は変わらない。

世界は、私は変わらない。

神に創られたものが何かにすがらなければ立ちゆかなくなるなどということがあろうか。

何もなくとも世界は世界。

私は私。  


ステファノの顔はさながら天使のようだったと記されている。

握り締めていない顔。

すがらない顔。

失うことに怯えていない顔。

教会はそういう顔になっているのか。 

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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