「欲しい」

2018年4月29日

創世記25章27-34節

ヤコブの物語が始まります。

ヤコブは双子の弟。

兄はエサウ。

母親のリベカはこの二人を胎に宿したときに大変苦しんだ。

お腹の中で争い合う二人。

どうかなってしまうのではないかと苦しんだ。


二人のものが争う。

隣り合っているもの。

そっくりなもの。

その両者が争う。

どこにでもあること。

いつの時にもあること。

リベカの胎の中の出来事は世界の姿。

 

なぜ世界は争うのか。

私たちの心の中に何があるのか。

成長したエサウとヤコブのやり取りがそれを教えてくれる。

狩を得意とするエサウ。

そのエサウが狩から腹をすかせて帰ってくる。

ヤコブの料理。

それが欲しくてたまらず懇願する。

「それを今すぐ食べさせてくれ」。

これに対しヤコブは

「ならばあなたがもっている長子の権利を私に譲ってくれ」と持ちかける。

空腹のエサウはヤコブの申し出を受け入れ長子の権利と交換に食事にありつく。

エサウとヤコブは何をしたのか。

彼らの心の中にあるものはなにか。

 

この物語の二人に共通しているもの。

それは「欲しいものがある」ということ。

エサウは食事が欲しい。

ヤコブは長子に権利が欲しい。

聖書は人が「何かを求めること」を否定してはいない。

ただ、何を求めたら良いのか、

それはしっかりと問いただす。

「つまらないものを求めるな」と語る。

ヤコブとエサウが求めたもの。

この後の展開ではこれが原因で両者は仲たがいをしていく。

求めなくてもいいものを求めたからか。

求めなくてもいいものとは何か。


エサウは「すぐに欲しい」。

ヤコブは「自分にないものを欲しい」。

どちらも欲望を掻き立てるには十分な材料を持っている。

「今すぐ」「自分に欠落しているもの」欲しい、必要を正義にする。

人は何を求めるのか。

物語の進行と共にそれは段々と明らかになるが今日の箇所で私たちが確認したいこと。

それはなぜ争い合う双子が生まれたかということ。

両親、イサクとリベカが神に祈り、それを神が聞き入れたからと聖書は記す。

争い合う二人は神の働きによって産まれた。

神の手によって生まれた。


「今すぐ欲しい」

神に包まれているのに「今すぐ」の判断は必要なのか。

「自分にないものが欲しい」。

神に支えられているのに「足りないもの」が本当にあるのか。

神を忘れて欲しがるもの。

余計なもの。

神を覚えて欲するもの。

必要なもの。


「欲しい」

自分だけに集中していなか。

そこに世界は見えているか

神を見ているか


私の思い

「欲しい」

小さいものを求めていないか

「欲しい」はもっと大きなものを求め出せる力を秘めている。

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