3月5日 主日礼拝
3月5日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
マタイによる福音書21章1〜11節
イエス・キリストがエルサレムに入城する。
十字架への一週間、イエス様の最後の時が始まる。
入城に際して主イエスは子ロバを手に入れる。
二人の弟子を遣わし、誰かに呼び止められたら「主がお入用なのです」と言え、と教えてロバを取って来させる。
その通りにして二人の弟子はロバを手に入れた。
この話は読者に何を伝えようとしているのか。
最後の時に向かって、このやり取りの意味はなんなのか。
入城直前の二つのやり取り。
それがロバの話の意味を教えてくれる。
二人の弟子、二人の盲人
それぞれが主イエスに願いを打ち明けた。
二人の弟子はイエス様が王様になった時は自分たちを一番上の位につけてくれ、と。
この願いはイエス様に退けられた。
それは願いになっていない、と。
次の二人の盲人の願い。
目が見えるようになりたい。
この願いは聞き届けられた。
どちらも願いであるが何が違うのか。
二人の弟子たちの願い。
自分にないものを求めている。
自分以外のものを求めている。
二人の盲人の願い。
自分のあるものを求めている。
自分の持っている「目」
それがちゃんと機能しますように
と、自分にあるものを求めている。
自分以外のもの
自分自身のもの
あなたは地の塩、世の光。
私が神様から預かったもの
与えれているもの
それがちゃんの輝きますよに
主イエスも同じ祈りをしていたのではないか。
自分の賜物を生かせるように。
自分が果たすべき使命を果たせますように。
その祈りによって主イエスはエルサレムに入城して行った。
ロバを連れて来い。
二人の弟子。
名前は記されてない。
もしこれがヤコブとヨハネ、自分にないものを求めた二人の弟子だとしたら。
彼らは世界の本質を目の当たりにしたのだろう。
自分たちは足りないと思って「位」も求めていた。
ところが「主がお入用なのです」と言えば、どこでどういう約束になっているかは分からないが、なんの支障もなく、それが手に入る。
自分の知らないところで全てが整えられている。
全ては備えられている。
全部ある。
彼らが見ていなかった世界の姿がそこにあった。
全部ある。
全部、決まっている。
自分の道
主イエスは十字架の道を進んでいく。
地の塩、世の光
これを果たす。
私の使命。
これを果たすには、困難がある。
人の批判、妨害、否定。
それがあっても自分の賜物、使命を自覚しているものは分かっている。
その先に何かある。
自分の想像が追いつかない何かがある。
「復活」「永遠の命」
変わらない、私の源となる何か。
絶対の何か。
それにたどり着く。
準備されている。
誰にしも
私にも
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