3月12日 主日礼拝

3月12日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書21章12〜17節

礼拝に出る。
信仰を持つ。
その生活をして起こるべきことは何か。
成長。
それが起こって信仰生活と言える。
ならば成長とは何か。
成長はどこで確かめられるのか。
主イエスはエルサレムに入り、神殿で商売をしているものを追い出した、
同じ神殿で足の不自由なもの、目の見えないものを癒された。
主イエスが否定するもの、肯定するものが描かれている。
この構造はエルサレム入城直前にもあった。
二人の弟子が主イエスに地位を与えて欲しいと願い出る。
目の見えないものが見えるようになりたいと願い出る。
弟子たちの願いは退けられ、盲人の願いは聞き届けられた。
主イエスが引き受ける願いと引き受けない願い、どこに境界線があるのか。
目の見えなもの。
自分の目を持っている。
持っているものがちゃんと機能するようと願う。
神殿で主イエスに願い出た者たちも同じ。
足を持っている。
目を持っている。
それがちゃんと動きますようにと願い出る。
あなたは地の塩、世の光。
私には私だけに与えられた賜物がある。
私の持っているもの。
私の仕事は、それを磨くだけ。
地位を欲しがった弟子たち。
神殿で商売をしていたものたち。
主イエスはこれを追い出し「強盗」と言う。
強盗
自分の持っていないものを自分の手に入れようとする。
愚かなものたち。
人類は自分にない「善悪の知識の木の実」を欲しがり、それを手に入れた。
その結果、本来いるべきところから転げ落ちた。
それが人の歴史。
自分に与えられているもの。
塩を光を輝かせるとどうなるのか。
成長が始まる。
自分の変化が始まる。
成長、変化とは何か。
物語の最後、子供たちが神殿で主イエスを讃える詩を大声で歌う。
これを聞き、祭司長、律法学者はうるさい、雑音だと言った。
同じ言葉を聞き主イエスは聖書の言葉、神の言葉だと言った。
同じものを聞き、「雑音」と「大切な言葉」とその受け取りが異なる。
昨日は3月11日
東日本大震災が12年前に起こった年。
不条理、引き受けられないもの。
それを拒み、恨むことを私たちはする。
それは当たり前のこと。
だが、そこにあるのはそれだけか。
同じ子供の詩を聞き一方は「雑音」と言い、他方は「神の言葉だ」とした。
不条理、引き受けられない現実。
それ以外に判断のしようのないもの。
その思いを持ちながら、自分の塩に、光に忠実に生きる。
直面した現実が変わってくる。
不条理の中に神の言葉が聞こえてくる。
闇の中に光が見えてくる。
神を見つけることができる。
成長とは何か。
どこにでもいる神を
いつでも語りかけている神の言葉を
聞ける者になっていく。
私が何かに憤り、絶望しているとしたら、そこにはまだ成長の余地が残っている。
神を見つけられる。
神を見出す
人の成長。

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