3月19日 主日礼拝

3月19日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書21章18〜22節

信仰が山を動かすと主イエスは言う。
一体、何を言っているのか。
信仰とは何か。
物語は空腹のイエスがイチジクの木に近づいたところから始まる。
過越の祭り、春の出来事。
イチジクに実がなっているはずがない。
なぜイチジクは春に実を付けていないのか。
それがイチジクの性質だから。
イチジクは決まったことを決まった通りにしているだけ。
直前で主イエスは祭司長、律法学者と衝突をしている。
彼らはイエスの言っていることが理解できない。
なぜ理解できないのか。
律法を誤解しているから。
彼らにとって律法とはその文字を守らなければならないものと思っていた。
主イエスは律法は私たちを肯定している言葉、励ます言葉と思っていた。
アダムとエバは「自分には足りないものがある」と思い込んだが、
本当はちゃんと全部持っている。
それを思い出させるための言葉が律法だと思っていた。
故に「あなたは地の塩、世の光」と語った。
祭司長、律法学者はこの意図が分からない。
アダムとエバと同じ思考回路に入っているから。
自分には足りないものがある。
自分はダメだ。
だから律法にすがる、と。
自分以外のものにすがることが私の幸福への足掛かりと思っていた。
イエスの弟子二人、ヤコブとヨハネはイエスが王になった時、自分たちを一番近くにおいてくれと願った。
目の見えないものは目が見えるようにと願った。
二人の弟子の願いは退けられたが、目の見えないものの願いは聞き届けられた。
何が違うのか。
ヤコブとヨハネ
自分にないものを求めた。
自分以外のもの、自分には足りないものがあるのでそれが欲しいと願った。
自分以外の所に心を持って行った。
目の見えないもの。
自分の持っているもの。
自分の体の機能を求めた。
私がもっと私になりますように。
主イエスは空腹だった。
この体がちゃんとなりますように。
それを求めた。
心を自分に留めた。
決まったことを決まった通り。
心を自分以外の所に持って行ったもの。
イチジクの木、それは祭司長、律法学者。
信仰とは何か。
祭司長、律法学者、自分には信仰があると自負していたもの。
その信仰とは自分以外のものに依存すること。
あなたは地の塩、世の光。
神からの賜物。
それは人の評判、世間の常識に晒された時、捨ててしまった方が楽になるもの。
塩、光を捨てて、自分以外のものにすがっていく。
信仰とは何か。
神から与えられた私の塩、光
それを信じる。
信じ切る。
これが私の仕事、
私の使命。
それを信じる。
それを見つけ、それを信じたらどうなるのか。
批判の中で、逆風の中で自分を信じたらどうなるのか。
自分を捨てて、世間のものがすがっているものを頼りにした方がよっぽど楽ではないか。
それをしないとどうなるのか。
自分を信じたらどうなるのか。
山が動く。
あなたの賜物に宿っている力を世に示せ。

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