3月26日 主日礼拝

3月26日 受難節第五主日
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書21章23〜27節

イエスの最後の一週間。
エルサレムの神殿。
祭司長、律法学者とイエスの間に緊張が増していく。
国を預かる祭司長、律法学者。
民の幸福のため、ローマ帝国との狭間でできる限りのことをしている。
ところがその民は責任者の思いを推し量るでもなく、世間で評判になっている者にうつつを抜かす。
イエスが入城すれば大騒ぎをし神殿ではこの者の言葉に耳を傾ける。
この国をここまで守ってきたのは誰だと思っているのか。
祭司長たちは部下を連れてイエスに詰め寄る。
「なんの権威でここで語っているのか」
誰の許可を得ているのか。
イエスは答える。
「誰の権威か答える前に私の質問に答えて欲しい。
ヨハネの洗礼は神からのものか、人からのものか」。
祭司長たちは即答ができない。
ヨハネを見殺しにした負い目があるから。
「神からのもの」と言えば、どうして信じなかったと言われる。
「人からのもの」と言えば、ここにいる群衆が黙っていない。
彼らはヨハネを信じている。
どちらの答えも自らを窮地に追い込む。
「分からない」
祭司長が答える。
イエスもその答えを聞いて返答する。
「なんの権威か私も言うまい」
「なんの権威で語っているのか」
イエスは本当に答えていないのか。
イエスと緊張関係にあるものたち。
このものたちの特徴。
自分以外のものに心が奪われている。
祭司、律法学者。
これまでのしきたり。
常識。
人の目。
ローマ帝国を恐れ、人の目を恐れ、外の世界を恐れている。
決まったことを決まった通り。
予定調和、私の知っていること、想定の中のこと。
私の仲間が、みんなが行っていること。
その中に自分を埋没させること。
それが人の道
人の幸せ。
あなたは地の塩、世の光。
掛け替えのないものを神からもらっている。
山を動かすほどものをもらっている。
それなのに人の目を気にして、人に心を持って行かれ、
それに蓋をしている。
神から与えられたものを輝かせろ。
人の目を気にせず、自分の使命を果たせ。
祭司長たちが築き上げてきたものを壊そうとするイエス。
民はこれに喜び
賛同した。
祭司長たちの恐れは増大し、イエスへの憎悪も増していく。
だが喜んでいる群衆は本当に祭司長たちと違うのか。
群衆はイエスの理解者か。
エルサレムに入城した時に「ホサナ」と叫んだものはイエスの味方か。
数日後、群衆は「イエスを十字架につけろ」と騒ぎ立てる。
まったく違うことを群衆は口にする。
群衆に何が起こったのか。
何も起こっていない。
彼らは何も変わっていない。
隣の人と同じことをしていただけ。
同調していただけ。
みんなと一緒にいただけ。
自分以外のものを、仲間を大切にしていただけ。
地の塩、世の光とは何か。
山を動かす力を持っている。
その一方で人からの理解を得られない状況に自らを追い込んでいく。
同調をすれば孤独ではなくなる。
だが塩味も、光も埋めることになる。
イエスと同じく、自らの信じることを貫いたヨハネが行っていた洗礼。
ヨハネはヘロデに殺され
イエスは十字架にかけられた。
私たちはそれを「受難」と呼ぶ。
「なんの権威でここで語るのか」
イエスの答えは恐らくこうだろう。
なんの権威に依存していない。
私は私の道を進むだけ。
「なんの権威かあなたには言うまい」
あなたには分からない。
権威の下になど私はいない。
あなたの知らない世界に私はいる。
同調が世界の地盤だと思っている祭司長、律法学者、群衆、
彼らはイエスを亡き者にしようとする。
イエスが経験した受難。
これは過ぎ去ったものなのか。
イエスだけが経験し、私とは関係のないものなのか。
ちがうだろう。
受難は私たちの生き方であり、これからも経験すること。
だが、そこで得るものは大きい。
私の塩、私の光
これに蓋をしなければ受難に遭う。
だが蓋をしなければ私の賜物を用いることができる。
そして蓋をしなければ山を動かせる。
私が神から預かった賜物。
この世に生を受けた意味。
賜物を用いる。
山を動かす。
神との約束を果たす。
これ以外に私の使命があるのか。

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