4月2日 主日礼拝

4月2日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書21章28〜32節

イエスの最後の一週間。
エルサレムでイエスは祭司長、律法学者たちを批判する。
大事なことを疎かにしている。
悔い改めが分かっていない。
ぶどう園を営む親子の譬え話。
父親が兄弟たちに「ぶどう園」で働くように告げる。
その言葉に兄は拒絶をするが、その後、思い直してぶどう園に出かけて行く。
弟は素直に返事をするが、結局はぶどう園へは行かない。
兄弟の譬えはエルサレムの人々の譬え。
私たちの譬えでもある。
洗礼者ヨハネの話を聞いて悔い改めたもの。
徴税人、娼婦たち。
この者たちは自分の世界からもう出ることはないと思っていた者。
仲間、家族、彼らと共に過ごすことはないと思っていた。
付き合いと言えば、金が目当てのものばかり。
心を許すもの、信頼し合えるもの。
そういう者と共に過ごす世界は自分にはないと諦めていた。
自分の世界を自分で規定していた。
神の国は近づいた。
悔い改めよ。
福音を信ぜよ。
洗礼者ヨハネも語った言葉。
そしてイエスも語った言葉。
悔い改める。
悔い改めても良い。
自分の世界が全てだと思わなくてもいい。
もっと大きい世界へと歩み出してもいい。
罪人と言われる人々。
彼らは自分の世界から、もっと大きな所へと踏み出した。
自分の部屋から、ぶどう園へと出かけて行った。
ぶどう園へ行きますと言って行かなかった者。
祭司、律法学者、国のリーダーたち。
彼らもヨハネの言葉を聞いた。
その言葉に感銘を覚えた。
だが、思い返して、自分の殻に閉じこもった。
私の知らない所に世界があるはずがない。
私の知っているもの。
これが全て。
ぶどう園に行っても苦労するだけ。
今の環境を捨てても今以上のものは得られない。
ここに留まる。
悔い改めれば私の幸せは崩れてしまう。
イエスはもっと大きな世界に招かれている機会を無駄にしたと祭司長、律法学者を批判する。
だがイエスは彼らを批判するためだけにこの譬えを語ったのではないものと思われる。
自分は兄なのか、弟なのか。
イエス自身が自らに問うていたのではないか。
「苦き杯を取り去りたまえ」と、この後ゲッセマネの園でイエスは葛藤の祈りをくり広げる。
十字架はイエスにとって好ましいものではない。
避けて通ることができれば、通り過ぎたいもの。
「いやだ」と言ったが思い直して出かけた兄。
何が彼をそうさせたのか。
地の塩、世の光。
私が神から与えられた賜物。
私の使命。
それは人と異なるのだから、人から応援されることはない。
違うのだから忌み嫌われる。
人の言葉に晒されて自分の賜物、使命を埋めるものがいる。
それの方が遥かに楽だから。
十字架にかかる。
誰が好き好んで、そんなものを選択するものか。
「いやだ」と言ったが、ぶどう園に出かけた兄。
それが自分の仕事と割り切った。
自分だからできること。
自分だからしなければならないこと。
それを果たす。
ぶどう園へと出かけて行く。
私の塩、私の光
これを実現するためイエスは十字架へ赴く。
自分の世界を捨てて行く。
自分の知らない所へと進んでいく。
自分の世界を捨てて行く悔い改め。
なぜ、ヨハネもイエスも悔い改めを勧めるのか。
彼らの言葉をどうして聖書は記録し保存し、
後世のものは大切にしてきたのか。
知っているから。
悔い改めの先を。
私の世界を出た後を。
ぶどう園がどんなものか知っているから。
私が思ってもいなかったものがそこには広がっている。
行ってごらん。
悔い改めは自己卑下の進めではない。
喜びへの招きになっている。
神の国は近づいた。
悔い改めよ。
福音を信ぜよ。
私の知らない所に私が想像もできない大きく広いものがある。
信じる。
私を捨てる悔い改め。
それがいかに人に必要か。
それを知っているが故にヨハネは語り、
イエスも進めてきた。
今週は受難週。
自分を捨てるのに、
自分の使命を引き受けるのに葛藤したイエスの思い。
キリストに倣う。
それを覚える週としたい。

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