4月9日 主日礼拝(イースター)

4月9日 主日礼拝
イースター・復活祭 礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書28章1〜10節

イースター
復活を信じるとはどういうことか。
イエスの復活の物語。
二人のマリアがイエスの葬られた墓に出向いて行く。
そこにはイエスの遺体はなく、天使が座っていた。
天使はマリアたちに告げる。
「イエスは復活した。
弟子たちに告げよ。
ガリラヤに行け。
そこでイエスに会える。
確かに伝えましたよ」
ここはエルサレム。
弟子たちにとっては異国も同然。
言葉も違う。
風習も違う。
一週間前、エルサレムに入る時
イエス様は王様になると思っていた。
自分たちも相応しい位が与えられると思っていた。
それがイエスが神殿で商人を追い出したあたりから雲行きが変わってきた。
祭司長、律法学者と衝突を始める。
ついに過越の祭りの直前に捕らえられ、十字架にかけられた。
全てがうまく行くと思っていた。
自分たちの労苦は報われると思っていた。
それが一夜にして全部が崩れた。
終わった。
弟子たちにとってエルサレムは終わった所。
天使たちは告げる。
エルサレムを離れてガリラヤに行け。
ガリラヤ。
自分たちの故郷。
自分たちが生まれた所。
イエスと宣教を始めた所。
生まれた所、始めた所。
ガリラヤ。
始まりの所。
エルサレムを離れてガリラヤに行け。
終わりを離れて始まりに行け。
終わっていない。
ここから始まる。
私たちは何度も経験している。
失意、挫折、絶望。
自らが生み出した結果でも、他者からの仕打ちでも、自然災害でも、意図せず引き込まれた出来事でも、経験している。
終わった。
恐らくこれからも経験する。
もう、終わりだ。
復活の物語は私たちに告げる。
エルサレムからガリラヤに行け。
エルサレムの先がある。
終わりの先がある。
終わりではない、始まりだ。
マリアたちはこの言葉を携えて弟子たちの所に赴く。
だが、誰が聞いてくれるのか。
突拍子もない言葉。
日常の中にない言葉。
非常識な言葉。
誰からも理解されない、応援されない言葉。
あなたは地の塩、世の光。
私の賜物。
人から理解されない、応援されない。
それでも見てしまった。
聞いてしまった。
心で受け止めてしまった。
これが私の賜物、私の使命。
二人のマリアが天使の言葉を携え走って行く。
それが私の賜物、私の使命。
その途中、イエスに出会う。
イエスは言う。
ガリラヤに行け。
天使の言葉は偽りではなかった。
本当だった。
イエスに励まされ、マリアたちは進んでいく。
復活、イースターを信じるとはどういうことか。
誰もが終わりと言っている時、
自分も終わりと思いたい時、
そうではない
ここが始まり。
自分の使命をただ引き受ける。
これが私の賜物、私の使命。
携え、進めば見えてくる。
目の前に現れてくる。
行くべきところが
私の賜物が導くものが。
復活を信じる。
終わりの前でたたずむのではなく
ここを離れて、動き出せ。
走り出せ。
何も終わっていない。
始まりだ。
そこに行けばあなたが一番会いたいものと必ず出会える。
確かに伝えましたよ。

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