何度でも救う
2018年5月27日
創世記26章1−14節
私たちが信じている神様はどのような神様なのか。
その神様が、もし喜んだり失望したりするとしたら、
それはどのような時なのか。
自分の命を守るために、妻を「妹だ」と言って為政者に差し出す。
このあらすじを持った話を創世記は三回、記している。
アブラハムが二回、息子のイサクが一回。
なぜ三度も同じ物語を記す必要があったのか。
妻を「妹だ」と言う。
彼らは生きるために、異国に身を寄せなければならなくなった。
よそ者に対して奇異の目にさらされる。
美しい妻。
この妻を獲得しようと男たちは自分を殺すかもしれない。
夫であるアブラハム、イサクの不安。
一緒にいる女性は妻ではなく妹だと申告する。
それによって死を免れる。
アブラハムは神から妻サラとの間に子供が生まれるとの約束を受けていた。
イサクは母のサラが亡くなった時に神の導きにより妻リベカと出会った。
彼らにとって妻は神様から授かったもの。
心情的にも大好きなもの。
その彼女を妹と言う。
それは二度と夫婦の関係に戻れないこと、神との関係を捨てるに等しいこと。
夫婦として、してはならない選択、
最悪の決断。
しかし生きるために彼らはそれを選んだ。
神様が下さった恵みを捨てるかの行為。
神はその者たちをどのように取り扱ったのか。
妻を妹だとする偽りの申告は神から為政者たちに真実が知らされる。
その結果、妻は夫の元に返され沢山の財産が与えられ解放される。
アブラハムらの計算ではあるまい。
人の世の常とは違う。
最悪の選択をした夫婦。
どん底に落ちる選択をした者。
彼らはそこで大きな恵みを受ける。
神様とは何か。
神様は人が最悪な所に進んで行ってもそこで大きな恵みを与える。
行ったら最後帰ってこられない所に行っても導き返す。
主イエスの十字架と復活は不思議な事件の報告ではない。
世界のあり方を示している。
神は人を追いかけ救い出す。
死んでも救い出す。
そういう世界に人はいる。
その神を疑い自分の業を評価してくださるのが神だと思い上がる者に神は嘆かれる。
創世記は三回この物語を記す。
何度でも起こるから。
アブラハムからイサクへと時代が変わっても起こる。
かつても今もこれからも起こる。
恵みは何があっても変わらない。
その信仰が神の期待。
神の喜び。
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