6月25日 主日礼拝

6月25日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書23章37〜39節

イエスの最後の一週間。
エルサレムでファリサイ派と対峙する。
イエスとファリサイ派の違い。
世界観の違い。
ファリサイ派の世界観。
世界は恐ろしいところ、怖いところ。
その世界で生き抜くために武器を手に入れる。
富、権力、評価。
自分以外のものを少しでも多く集める。
それを握りしめ、執着、固執が人生で大切なこと。
一方のイエスの世界観。
創世記の神話を信じている。
神が「良い」と言った世界。
この世界は良いところ。
だから、何にも固執したりしない。
答えがあるなどと思っていない。
間違いはない。
良い世界
正しいも間違いもない。
どちらからでも行くべきところにはちゃんと行ける。
何も握りしめる必要はない。
依存もない、支配もない。
自由こそが私たちの存在形態だと思っている。
イエスとファリサイ派の対峙の最後
イエスはエルサレムへの批判の詩をうたう。
イエスとファリサイ派、エルサレム。
対峙と読んできた。対立と考えてきた。
この時、イエスの「汝の敵を愛せ」はどうなっているのか。
イエスにとってファリサイ派とはどういう者なのか。
文献学的に分かってきたこと。
イエスとファリサイ派は非常に近い表現形式を持っている。
イエスとファリサイ派は近い。
イエスはファリサイ派の一人とも考えられる。
イエスにとってのエルサレムとはどういう所か。
幼い時から行ったことのある場所。
神殿のあるところ。
人生の最後に目的とした場所。
イエスにとってファリサイ派、エルサレムとはどういうところか。
愛する人、愛する場所。
大好きな場所で、大好きな人々と論争になった。
そして、世界観を伝えることができず、たもとを分かつ。
エルサレムへの嘆きの最後の言葉。
エルサレムは「主の名によって来られる方に祝福があるように」という時まで、私を見ることはない。
決別の言葉だが、それだけか。
エルサレムがちゃんと分かれば、また会えると言っている。
再会の約束を語っている。
絶望をしながら、期待している。
諦めていながら、希望を持っている。
二律背反というかもしれない。
だが、それは世界は怖いと信じ込んでいる世界観から来る、答えはひとつでなければならないという思考が作り出した区分。
二律ではあるが背反はしていない。
世界は良いところ。
その世界観があれば一つのものにすがりつきはしない。
留まり続けはしない。
絶望をしても必ず良い結果に巡り合えると信じている。
諦めていながら必ず良いものになると信じている。
ファリサイ派、エルサレムをどんなに批判し、厳しい言葉を投げかけようが、イエスは彼らを愛している。
イエスの世界観が愛を生み出している。
絶望はそこが最終地点ではない。
諦めは敗北ではない。
良いところ
その世界にいる。
良いものに必ず出会える。

※建築中の新会堂に屋根がのりました。

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