7月2日 主日礼拝

7月2日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書24章1〜2節

まもなく終わる。
自らの人生も、この世界が大切にしていたものも。
全てが終わる。
死の危険が迫っている直前、
イエスは全てが終わることを平然と語る。
イエスの活動の始め
山上の説教
「あなたは地の塩、世の光」
神から与えられたあなたならではのものがある。
賜物がある。
全てのものに与えられたもの。
だが、それを見出すものは少ない。
世界が恐ろしいと思っている。
この世界は闇が支配していると思っている。
恐ろしい世界に飲み込まれないために、自分一人では生きていけない。
頼りになるもの、強いものに、身を寄せる。
強いものをしっかりと握り締める。
学歴から始まって、肩書き、人脈、権力、富
自分以外のものをしっかりと身につける。
命綱を手放さないようにして生きていく。
それが勝組になる極意。
イエスはこの思考を否定する。
心が自分から離れて、自分ではない「何か」にいつでも行っている。
それでは自分の中にある塩に、光に気がつくことがなきない。
世界は怖くない。
世界は良い所。
神が「これで良い」と言った所。
イエスは世界は明るい所と思っている。
自分以外の所に心を持っていかれなくても良い。
自分に心を留めておけば良い。
だから自分の塩味を、光が探せるはずだろう、と語る。
本多記念教会の礼拝でこの山上の説教の箇所を読んだのはコロナが始まった2021年の2月。
そこから私たちは自分の塩味、光を探す訓練を日々重ねてきている。
その中で誰しもが体験をしていること。
これが私の塩味、光と思うものに出会う。
ただ、それをしっかりと見つめていると色々なものが見えてくる。
私だけの塩、光と見えたもの。
それは家族に喜んでもらえたから、賞をとったから、何がしかの理由があることに気がつく。
理由、私以外の誰かの評価
それに支配されて自分で光、塩と思っているだけ。
人が根拠になってる。
ここはまだ光、塩と出会う場所ではなかった。
もっと先へ。
自分と神様だけにしか分からない何か。
これが光だ、塩だと思ったものの、もっとその先に本当の塩、光がある。
私たちはこれを繰り返している。
「これだ」と思っても、そこには誰かの影がある。
もっと先へ行く。
誰もいない所へ。
もっと先へ。
これを繰り返していく。
イエス・キリスト。
この方もきっと同じ経験を何度もした方。
そしてその経験が積み重なった時に見えてきたもの。
世界の最後を、自らの最後を受け入れられる。
最後を平然と語れる。
私たちはこれが最後だと思わされるものに直面する。
災害、戦争、裏切り
もうダメだ、と思うものに直面する。
自らの死の予感
おしまいだと思わされる。
自らの塩、光を求めてきたもの。
このものたちには共通の体験がある。
ここだと思っていたもののもっと先があった。
終わり、死、確かに不安を引き起こし、絶望が心を覆う。
だが、塩、光を求めて来た者たちの心にはその時、湧き上がるものがある。
この先がある。
私たちが思う終わりは終わりでもなんでもない。
終わりはもっと先にある。
そして、もっと先にある終わりは「永遠」であることに気がつく。
世界は平安に満ちている。
世界は良い。
その世界を知るために私たちは今日も自らの塩、光を求めていく。
もっと先へ進んでいく。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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