7月30日 主日礼拝

7月30日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書24章36〜44節

最後の日
特別な日が来る。
自分が問われる時
私とは何かを自らが語る時。
神の前で、自分は何者であったかを語る。
その時、私は神の御心にかなっているのか。
走るべき道を走って来たのか。
自ら問う時
答える時。
その時は誰にも知らされていない。
何時やってくるのか分からない。
ならば準備のしようがない。
ただ、私たちはあたかも、その日への万全の備えができるかのような考えを抱いている。
将来のため
未来への準備。
子どもの頃から数字を追い続け、少しでも大きいもの
人よりもたくさんの数字
それを追い求めている。
未来を見据えて準備をする。
大切なことだが、未来に心奪われているのならそれは本当の準備ではない。
主イエスはここに至るまで他者に心を奪われるなと語って来た。
それは「自分」と「自分以外」の区別をつけることでもある。
「自分以外」のものを私たちは気にかけ、怯えている。
他者の評価、称賛、批判
それらを気にかけ、自分を調整する。
だがそれは他者に心が奪われていること。
他者に心が奪われれば、心はもはや自分にはない。
私が何者か。
最後の日に語るべき言葉を私たちは失っている。
あなたは地の塩、世の光。
私の塩味、私の光
私の使命
私にしかできないこと。
それは他者に心があっては見つけることができない。
その主イエスの考えは「時間」にも反映されている。
未来、過去
私たちの心を支配するもの。
過去の出来事に支配され、自分はそこから逃れられないと諦める。
未来に不安を覚え、そのための準備をしなければと躍起になる。
過去は変えられない、未来は思い通りになるとは限らない。
過去、未来、自分の力の及ばないところ。
ならば、それは「自分」ではない。
「自分以外」のもの。
区別をつけるもの。
心の置き場所として考えるべきもの。
自分以外の所に心を置かない。
過去、未来、
自分の心を置く所ではない。
他者ではなく自分に
過去、未来ではなく今に
今、ここ、私
私たちが心を置く所
今、ここ、私
過去は変わらないと人は言う。
本当か。
過去とは人の記憶、記録の中にあるもの。
人が作り出したもの。
歴史の解釈はこれまで何度も修正をされてきた。
悪人との印象を持たれていたものが、新しい証拠の発見によって掛け替えのない人物へと再評価された例はいくらでもある。
私たちを支配している暗い闇は本当に闇なのか。
闇であったとしても、それは私になくてはならないものなのか。
自分でないものは、自分から引き剥がすことができる。
罪の赦しとは自分の悪事を自覚して、それが神様にカウントされないことを喜ぶことではない。
私に張り付いていたものは実は自分が握りしめていただけだと気がつくこと。
私が力を抜けば、それは簡単に剥がれ落ちていくことを知ること。
敵を愛せ。
なぜ敵が憎いのか。
私がそのものの印象を、情報を握りしめているから。
力を抜け。
敵を形成している情報を捨ててみろ。
その者が敵に見えるか。
情報を捨てたことが原因で敵が襲ってくるのか。
襲って来たとしても、だからどうした。
私のするべきことをしたのなら、なんの悔いがあるのか。
イエス・キリストは十字架に赴く。
神の前で私はこういう者。
それを語る準備をしている。
今、ここ、私
そこに心を留める。
自分以外のもの
他者は恐れるものではない。
心を留め置く所ではない。
過去、未来、
自分以外のもの、
心を留め置く所ではない。
今、ここ、私
そこに心あれば世界に恐れを見つけることはできなくなる。
世界が良いものに見えてくる。
神の造った世界を垣間見れる。

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