8月6日 主日礼拝 礼拝説教

8月6日 主日礼拝
礼拝説教
【オンライン礼拝】
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書24章45〜51節

神と出会う日が来る。
最後の日。
その時、私たちはどうすればいいか。
二人の僕の話。
主人が家を出る時、僕に管理を任せる。
家来たちの面倒をちゃんと見るように。
良い僕、家来たちの面倒をちゃんと見た。
悪い僕、家来を蔑ろにして、主人がいないのを良いことに好き勝手した。
主人が帰ってくる。
良い僕には全財産を管理させる。
悪い僕は外に放り出される。
主人が帰ってくる日。
最後の日。
私たちは良い僕でありたいと願う。
では、私たちは主人、神様の言いつけをちゃんと守って生活をしているのか。
それ以前に、神様が私たちに命じているものとはなんなのか。
二人の僕を分解してみる。
悪い僕と良い僕の違い。
悪い僕、主人の言葉を守らない。
それは、主人がいる時といない時の態度が違うということ。
主人の在り方によって、自分の態度をかえる。
他者を見て、自分を決める。
他者に振り回されている。
他者に依存、支配されている。
良い僕
主人と言いつけを守っていることから、こちらも主人に依存していると読むことも可能。
だが、物語の意図は違う所にある。
悪い僕が他者に依存しているものならば、これは蛇に騙された人類の典型。
全てが与えられているのに「足りない」と勝手に思い始める。
足りないものがない状態で欲しているから、
何を得ても「足りない」は解消されない。
欲望が尽きぬ原因。
足りないものが本当はないのに「足りない」と信じ込んでいる。
「足りない」だけが虚しく空回りをしている。
欲望に支配されたもの。
「足りない」に脅迫をされているもの。
世界に優劣をつけていく。
自分の不安を解消してくれるもの、
解消の役に立たないもの
優劣をつけていく。
家来を殴りつけ、仲間とどんちゃん騒ぎをする。
欲望に踊らされている悪い僕の心の構造。
良い僕
蛇に出会う前の人の姿。
神が世界を造った。
世界は神の目に良いものであった。
この世界は良い。
良い世界で何が足りないのか。
良い世界で何を恐れるのか。
良い世界で誰を敵と認定するのか。
何も足りなくない。
何も恐れなくていい。
誰も、どんな力もこの良い世界を壊すことはできない。
それが良いということ。
ならば誰を恐れるのか。
誰を警戒しなければならないのか。
壊れることのない世界が壊れると思っているのは人の頭の中で作られた「現実」と思っているものだけ。
世界は壊れない。
ならば、この世界を好きになるはず。
この世界の誰しもが自分と同じようになっていて欲しいと願うもの。
僕が空腹ならば食事を与える。
困っていれば助ける。
良い僕がしていたこと。
主人の命令が怖くて聞いていたのではない。
彼の思いで、意志で行った。
主人がいても、いなくても、この僕は同じことをした。
それが主人の心に適っていた。
人は神の命令に怯えながら生活をするのが人生ではない。
神が世界を造った。
この世界は良い。
それを信じるのが人の務め。
信じた時に何か起こるのか。
良い僕と同じように振舞うはず。
それは神の心と一致する。
あたかも神の命令に服従したかのような振る舞いと同じになる。
世界は良いところだから
世界が大好きだから、
私がするべきことを行う。
神が造った世界で神に造られた私が行うこと。
イエス・キリストの十字架
世界が大好きだから、私のなすべきことを行った。
イエス・キリストの生き方
私が今日できる生き方。
最後の日に神様と出会う準備。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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