8月27日 主日礼拝
8月27日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
マタイによる福音書25章31-46節
最後
私たちは自らを問う。
自分の人生とはなんだったのか。
聖書はそれを「神が裁く」と表現する。
その時に起こること。
はっきりと分かれる。
満足のできた生き方。
虚しさだけしか見出せない生き方。
「裁き」はある日、突然、下されるものではない。
日々の生き方、毎日が、今日が「裁き」の中身になっている。
今日をどう生きたら良いのか。
イエスの譬え話は「天の国」に入れるもの。
入れないものと分かれると説く。
その分岐点になるもの。
小さいものに何をしたのか。
困っているもの。
その者を助けたか。
その者を見捨てたか。
小さいものに何をしたか。
それで分かれると言う。
ただこれは親切の薦めではない。
結果、親切との形になるが、問題なのは、親切を生み出せるか、出せないかの「心」の在り方。
心のあり方が裁きの時の分岐点。
困っているものを助けない。
どうすれば「助けない」という心になれるのか。
困っている人を見る。
情報として入ってくる。
それに反応しない。
反応させない。
困っている人を見る。
そして、「そこには誰もいない」と判断する。
「いない」
そう思えば、何もしないで立ち去ることができる。
「いる」のに「いない」。
「ある」のに「ない」。
不自然な世界観。
これが現実だと思い込む。
当たり前のことを当たり前に受け止められない。
困っている者を助けた者。
特別な優しさを持っていたわけではない。
困っている人がいる。
「いる」をちゃんと分かったら、助ける。
自然なこと。
「ある」を「ある」とする。
その心は当たり前に、困っている人を助ける。
それ以外の選択肢の存在など詮索もしない。
なぜ人は自然に振る舞えないのか。
当たり前を当たり前に受け止められないのか。
世界の見方にコツがあるわけではない。
自然の世界、ありのままの世界をちゃんと見る。
それは「心」がそれをできるものになっていなければならない。
どうすればその「心」を培うことができるのか。
イエスは始めから言っている。
「あなたは地の塩、世の光」
あなたにはこの世界を生かす「塩」「光」がある。
「あるもの」はある。
だが、私たちは自分の賜物が分からないと言う。
「塩」「光」などないと言う。
人に評価されない。
応援されない。
お金にならない。
自分以外のものに心奪われて、自分に「ある」ものを「ない」とする。
「ある」のに「ない」とする。
不自然な世界観。
歪な世界。
それが続くはずはない。
自然は人の不自然に付き合う合理性を持ち合わせてはいない。
自分の「ある」を「ない」とする。
その者は世界の「ある」も「ない」とする。
自分とちゃんと見られないものが世界をちゃんと見られるはずがない。
困っている人がいても「ない」としか考えることができない。
終わり、裁き、それは突然、下されるものではない。
日々の営み。
私の今日が問われる。
私は自らの人生を振り返る時、自らをどう見るのか。
満足をするのか。
虚しさしか感じられないのか。
それは私の心が「自然」か否かにかかっている。
「ある」を「ある」とする。
私に「ある」もの
世界に「ある」もの
それをちゃんと「ある」とすることができるか。
終わりの日の「私」
今日の「私」が作っていく。
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