11月19日 主日礼拝

11月19日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

マタイによる福音書 27章11〜26節

人はどのように生きるのか。
私たちが問うていること。
今日の聖書の物語には様々な人の生き方が現れている。
群衆
祭司長、長老たち
総督ピラト
イエス・キリスト
イエスの裁判の場面
人の生き方が現れている。
この場面の特徴。
登場人物が発言する。
意思を表す。
発言、意思
それらが噛み合わない。
ズレている。
ピラトはイエスを釈放したいと考える。
だがそれが実現できない。
ピラトと人々、噛み合わない。ズレている。
群衆は何も知らないイエスに対して死刑の要求をする。
祭司長、長老たちも、この点は同じ。
事実がないにも関わらず、有罪、死刑にまで強引に持っていく。
社会の秩序、客観的現実、これとズレている。
なぜ、彼らはズレを作り出したのか。
ピラト
総督という地位にありながら、その国をまとめる責務のため
群衆の言いなりにならざるを得ない。
群衆
祭司長、長老たちの言いなりになっている。
祭司長、長老
イエスがただ憎い、怖い。
自分とは違う、異なる。
それが許せない。
ピラト、群衆、祭司長、長老
彼らに共通しているもの。
自分以外のものに心が奪われている。
自分自身に心が留まっていない。
心がどこかに行っている自分
自分ではなくなっているものを自分だと思い込んでいる。
人はどう生きるのか。
ピラト、群衆、祭司長、長老
彼らの生き方は自分を失う生き方。
自分以外の所に心を持っていかれれば、自分ではなくなる。
自分でないものが自己主張をしても、それはズレるだけ。
この世界で生じているズレ
誤解、衝突、争い、戦争
心が自分から離れて行った、自分を失ったものが生み出している。
心を自分以外のものに奪われる生き方が一つだとすれば、
もう一つの生き方がある。
イエス・キリスト
この場面においてイエスはほとんど登場しない。
だが、ここにもう一つの生き方が示されている。
イエスはこの場面において何をしていたのか。
イエスはただ黙っていた。
ゲッセマネの園でイエスが群衆に捕われる時、
弟子の一人に向かって言った。
「私が父にお願いして、今すぐ天から12軍団を呼べないとでも思っているのか」
そしてイエスは何もしなかった。
ここでも同じこと。
黙る。
イエスは何をしているのか。
黙るとは何か。
ピラト、群衆、祭司長、長老
皆、しゃべっていた。
語る。
自分の能力を発揮すること。
自分の力を世界のために役立てること。
語る、話す、内なる力を表す。
それが人の生き方であることに私たちも異論はない。
だが、それが争いを招くことは確認をした通り。
ならば、黙るとは何か。
あなたは地の塩、世の光
私の使命、
私の仕事と理解してきた。
だとしたらイエスはここで自らの正しさを証明して、
本当の正義を、神の力を示すべきではないのか。
イエスはそれをしない。
本当の地の塩、世の光
それは自分の力を発揮するだけでなく、それを捨てること。
捨てて初めて地の塩、世の光は完成する。
なぜ、捨てるのか。
黙るとは何か。
目の前で繰り広げられている人々のたわいもない自己主張を認めている。
それはイエスが彼らを受け入れていること。
イエスを裏切ったペテロとユダ。
始めから裏切ることは分かっていた。
それでも彼らを弟子とした。
彼らを受け入れていた。
ペトロはそれにやがて気がつく。
他方、ユダは自分の醜さを嫌悪し、死んでいく。
ユダの醜さ
それも分かって受け入れられいたのにユダはそれに気がつかない。
どこかに立派な自分がいる。
その立派な自分が自分だと思い込み、その自分になれない自分に絶望する。
自分以外のものに心奪われ死んでいく。
ピラト、群衆、祭司長、長老
彼らも同じ。
ズレる世界しか作れない愚かなものであってもそれは受け入れられている。
おのれを捨てる
黙る。
彼らはイエスに愛されている。
それでも私たちは言う。
正しいことを知っている者が黙っていては無責任だ。
黙る、自分を捨てる。
そんなことをしたら世界はどんどん悪くなる。
だから語ろう、主張しよう。
「語ろう」と考える私たちと
「黙る」を選択したイエスと何が違うのか。
何かが違うからこそ、イエスは黙るを選択した。
違いは何か。
語らなければ、活動をしなければ世界は悪くなる。
ここにある世界観。
世界は放っておけば悪い方に向かっていく。
この世界は悪い。
それが「語る」を支えている世界観。
そこがイエスと違う。
この世界は誰が造ったと思っているのか。
神が造った。
神は自分の造った世界を見て「良し」と言われた。
この世界が悪い
どの口が言う。
神の造った世界が悪いわけがない。
世界は良い。
ならばありのままへと進んでいこう。
ズレまくる人の言動があっても良いではないか。
心を他者に奪われている者が発言しても良いではないか。
それでも世界は良いものになっていく。
そこを通して良いものにになっていく。
そんな私たちを眺めながら
ひとあし先に本当の世界の生き方をイエスは示す。
何もしない。
捨てる
黙る
愛する
人はどう生きるのか。
私はどう生きるのか。
世界を私は信じているか。

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