12月3日 主日礼拝

12月3日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

ルカによる福音書1章26〜38節

クリスマスを待つ季節。
今年もクリスマスの物語を通して心を整えていきたい。
今日、読んだのはマリアの受胎告知の物語。
おとめが子どもを産む。
不思議な話。
あり得ない話。
これを私たちは「奇跡」と呼んできた。
この不思議な物語は私たちの物語。
さらに物語は私たちに問うている。
あなたはマリアのようになれるか。
この不思議な話のどこに私たちの物語があるのか。
天使ガブリエルはマリアにイエス誕生を告げる。
だが、マリアはこれを素直には喜べない。
自分には夫がいないから。
将来の約束を交わしたヨセフはいる。
だがヨセフの知らないところで子どもができた。
当然ヨセフは自分以外のものとマリアは関係を持ったと思うだろう。
だが、そのようなものは誰もいない。
一体誰がこのような話を聞いてくれるのか。
分かってくれるのか。
おとめが子どもを産む。
誰にも理解されない。
なぜなら前例がないから。
その後、この物語を読むものも、この出来事は「奇跡だ」と言う。
その後、マリアのような者が現れていないから。
端的に言うならば、マリアの経験は人類史において彼女にだけ起こった出来事。
彼女だけのもの。
これは私たちも同じではないか。
前例がない、そんなことをしてどうなる。
独りよがりだ。思い付きだ、と批判されるもの
私たちも持っている。
私たちは地の塩、世の光だと、イエス様は言う。
その塩、光とは誰からも称賛を受けるものではないかもしれない。
前例があり、それを踏襲するものが「塩」「光」ではないかもしれない。
おそらくは人に理解されないものが私たちの「塩」「光」。
自分の夢、未来の予想、企画
それらは誰の賛同も受けないものかもしれない。
ことによると私の思い込みということも十分にあり得る。
それが分かれば修正をすれば良いだけのこと。
問題は「思い込み」と「塩」「光」と、どこで区別をすることができるのか、ということ。
そのヒントはガブリエルのみ告げの中にある。
ガブリエルはマリアに告げる。
「主があなたと共にある」
神が一緒。
神、どの空間よりも、時間よりも大きい方。
時空の範疇に収まらない存在。
もはや「神」を人がどんなに想像をしても到達できない方。
それが神
その神があなたと一緒にいる。
思い込みは何かに怯えて作り出される。
負けたくない、飲み込まれたくない。
怯えるものがあって、それへの対抗として力んで生まれる思考。
自分で自分にしがみついている時に起こるものが思い込み。
何よりも大きい方が私と一緒にいる。
その時、私は何かにしがみつく必要があるのか。
しがみつく対象はどう考えても神より小さい。
そんなものにしがみついても力の無駄。
何にもしがみつかない。
何にも怯えない。
その時、私の体の中から、心の奥底から何が芽生えてくるのか。
前例がない。
応援もない。
誰からの理解も得られない。
やってもどんな結果になるか分からない。
それでも、それは私にしかできない。
それをしなければ世界が始まらない。
「お言葉通りにこの身になりますように」
人類史でたった一回だけのこと。
奇跡。
だが、これはマリアだけの話ではない。
私たちも同じ。
人類史でたった一回だけのこと。
それを行うために私たちは神から命を受けている。
たった一回のことをなす。
たった一回
奇跡
奇跡を行うために私たちはいる。
私にしかできないこと。
私がしなければ始まらないもの。
私が私を見つける
2023年のクリスマスシーズンに覚えたいこと。

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