5月26日 主日礼拝

5月26日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師

使徒言行録 2章14〜22節

聖霊を受けるとはどういうことか
ペテロは12弟子が聖霊を受けて、外国語の言葉を喋りだしたことについて説明を始める。
ペテロは終わりの時について語る。
終わりの時、聖霊が降り注がれる、と。
その時私たちは何を見るのか。
誰しもが人は終わりを迎える。
世界もまた終わりを迎える。
終わりの時、
そこが終着点と考える。
だか
その先に行ける。
それが聖霊を受けるということ。
これは何を言っているのか?
今日は三位一体主日
キリスト教の言葉でわかりにくいもののひとつ。
神様は父、御子、御霊であるが、それは三人ではなくひとつの神だと言う。
どう考えればいいのか?
例えばオーケストラ、
バイオリン、ビオラ、トランペット、
各々は自分の音を奏でる。
それが重なりあった時、ひとつの曲が現れてくる。
父、御子、御霊
この三つを重ねた時にひとつの神様が現れる。
すなはち、それは言葉にできない。
言葉はひとつの神様について語るだけ。
三つ重ねる
言葉では表現できない。
それは私たちに委ねられている。
解釈、理解、会得に委ねられている。
聖霊を受けるも同じこと。
聖霊
それは私ではないもの
それが私たちに降り注がれる。
私たちの中に入ってくる。
弟子たちが違う国々の言葉で語り出したように
聖霊は同じ言葉
同じグループを作るような言葉としては与えられない。
私の中にある私以外のもの。
私にしか分からないもの。
地の塩
世の光
神様から与えられた賜物。
私の中にある
私にしか分からない異物
だからそれを捨て去ることもできる。
吹き消すこともできる。
誰にも気が付かれない
誰も知らないのだから
何をしようが誰からも何も言われない。
自由に扱えるもの。
イエス・キリスト
自分中にある異物と戦った。
神よ
苦き杯を取り去りたまえ
されどあなたの御心がなりますように。
この祈りを何度も繰り返し、十字架に赴いた。
私の中にある私でないものを引き受け、実行した。
私の中にある私でないもの。
人から与えられた
人が作ったものもある
人が、私が作り出したものなのか
ならば捨てても良い。
神から与えられたものなのか
ならば引き受けるしかない。
だが
簡単に判別はできない。
判別は出来なくとも
必ず私たちの中にそれはある。
自分以外のものには分からないもの。
自分で吟味し見極めるしかない。
三位一体の神を知るのと同じこと。
私にしかできない。
私でないものを引き受ける。
勇気も、犠牲も伴う。
それでも私にしかできないことを行う。
イエス・キリストが見た世界が見えてくる。
終わりの先が見えてくる。
終わりなんてない。
永遠があるだけ。
この世界の真実
神が創り
全てを良いと言った
良いに満ち溢れた世界が見えてくる。
聖霊を受けるとはどういうことか?
喜びと出会うこと。

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