7月7日 主日礼拝
7月7日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
使徒言行録3章17〜26節
ペテロはエルサレムの人々に向かって語り続ける。
大昔の預言者はこのイエスについて語っている。
今の私たちを語っていると。
なぜ、ペテロは語るのか。
イエスがいなくなって途方に暮れていた弟子たち。
自分たちは何もできない。
イエスのようには語れない。
イエスのようなことはできない。
自分たちには何もできない。
ペンテコステの朝に聖霊が降り注がれ、彼らは語り出す。
自分にはできるはずがないと思っていた諸外国の言葉で語り出す。
これに続きペテロは奇跡までも起こす。
足の不自由なものを立ち上がらせる。
自分にはできないと思っていたイエスと同じようなこと。
それを次々と彼らは行なっていく。
ペテロたちのこの行動に戸惑う人々が現れる。
エルサレムの人々。
彼らはペテロに問いかける。
どうしてあなたはこのようなことができるのか。
ペテロは答える
イエス・キリストの名によってこれはできる。
自分の力ではない。
イエスの名、イエスの力によって出来る。
これを聞いて穏やかではないのはエルサレムの人々。
なぜなら、彼らはイエスの処刑に賛成をしたものたち。
イエスはいなくて良い。
殺してしまえと賛同したものたち。
彼らの心に去来したもの。
私が殺したあのイエスは神の子だったのか。
メシアだったのか。
だとしたら私はとんでもないことをしてしまった。
取り返しのつかないことをしてしまった。
現代を生きる私たちはイエスを十字架につけろとは叫んでいない。
ただ、取り返しのつかないことをしてしまった、という経験はある。
勘違いをしていた。
正しいと思ってしていたことで人を傷つけていた。
個人でも、社会、国家レベルでもそれは起こる。
正義のため、平和の実現のため、戦争は仕方ない。
戦いに踏み切る。
そして戦いが終わり荒れ野になった国土を見渡し、誰の心にも浮かぶ思い。
取り返しのつかないことをしてしまった。
とんでもないことをしてしまった。
エルサレムの人々
とんでもないことをしてしまった。
選りに選って神の子を殺してしまった。
自分たちはどうなるのか。
いつ処罰をされるのか。
生きていても生きた心地がしない。
死んでから神の前で裁かれるのか。
これから先、自らの罪を背負い、許されることない世界に永遠に留まり続けるのか。
ペテロはこの者たちに向かって語る。
大昔の預言者はイエスについて語っている。
この現実について語っている。
大昔から分かっていたこととして語っている。
ペテロは何を語っているのか。
神は知っている。
エルサレムの人々がしでかしたこと。
神の子を殺すこと。
神は知っている。
そんなことは神は、はなから承知している。
神が世界を造った時
この世界を見て良しとされた。
そこにはとんでもないことをしでかす今日のあなた達もすでに含まれている。
あなた達も含めて神はこの世界は良いと言った。
とんでもないこと
取り返しのつかないことをした私たちはどうすれば良いのか。
絶望して生きるのではない。
開き直って生きるのでもない。
絶望と開き直りの間にあるもの
そこを生きる。
それは私にしか分からない。
この世界は良い
私は良いの内にある
神は全てを知って
すでに備えの道を整えている。
それを信じた時に私にしか見えないするべきこと。
それは勇気のいることかもしれない。
人にはすぐには理解をされないことかもしれない。
この世界は良い。
この私は神の御手の中にある。
信じた時にしか見えない道。
それをひたすら歩みぬく。
それは必ず「良い」につながっている。
約束の「良い」につながっている。
取り返しのつかないことをしたもの
そのものだから歩める道
その者にしか歩めない道
私の道
私は私の道を歩んでいるのか
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