11月10日 主日礼拝

11月10日 主日礼拝

礼拝説教

伊藤大輔牧師


使徒言行録 9章10ー19節

人間とは何か。

何をするのが人なのか。

自分の価値観がひっくり返ったサウロ。

善悪、白黒

境界線を引いて、肯定するもの、否定するもので世界はできていると思っていた。

善悪。

その境界線は人が設定したもの。

誰かが作った境界線に従うことが人の生きる道ではない。

人がしなければならないこと。

それは自らに与えられた使命、賜物を生きること。

自分の外に意識を向けるのではない。

自分自身を見つめること。

自分を問うこと。

そこに神に与えられた「自分」がある。

自分を生きる。

それが人のなすべきこと。

アナニヤ。この者に神が語りかける。

サウロがあなたを待っている。

その者のところに行け、と。

だが、アナニヤはその言葉を引き受けられない。

サウロのしたことを知っているから。

教会を迫害してきた者。

今もそのサウロの姿勢は変わっていないとアナニヤは知っていた。

それゆえ、神の言葉を受け入れられない。

アナニヤの反論をもっとなもの。

悪をなしているサウロ

その者を、どうして助けるのか。

アナニヤの思考。

原因と結果。

悪があるのに、どうして善を行うのか。

悪という原因に対して助けるという善がどこで結びつくのか。

原因と結果の結びつきが成り立っていない。

この世界のあり方に反している。

アナニヤの言葉に対して神は語る。

「行け」と。

ここに人のあり方が語られている。

良いことをしたから報いがある。

悪いことをしたから罰がある。

それで私たちの世界は回っている。

それがアナニヤの発想。

だが、神は違う。

人が悪かろうが、良かろうが、そんなことを神は注目しない。

私がこのように造った。

それをただ貫くだけ。

ヨセフは夢を解くものとして神に造られた。

それをヨセフは実行する。

民を導くものとしてモーセは造られた。

それをモーセは実行する。

周囲の評価、批判などで変更、修正などしない。

これが私

私を生き切る。

アナニヤはサウロのところに出かけて行き

「兄弟サウロ」と呼びかける。

サウロのしてきたこと

そこにもはや意識はない。

この者も神に造られた者

神から使命をもらっている者

神の作品

ならば、この者が何をするのか見届けたい。

理由、原因

それを起点に自らの行動を決めるのではない。

理由、原因に依存しない、支配されない。

何があろうが、始めから定められていることを行う。

アナニヤはサウロを訪ねる。

そのサウロも自らの使命をまっとうする。

教会に礎を築く。

新約聖書の半分近くに関わる。

教会が世界へ出ていくきっかけを作る。

それはサウロの賜物にすぎない。

人は誰しもが、その役目を与えられている。

私が私を生きる役目が与えられている。

人間とは何か。

自分以外の何かにその答えがあるのではない。

私を知り

私を生きる

答えは私にある。


日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

渋谷区代官山の地に半世紀。本多記念教会は、青山学院大学初代日本人院長『本多庸一』を記念して、1953年に代官山にて創立された教会です。私たちは初めてのあなたを歓迎致します。

0コメント

  • 1000 / 1000