11月24日 主日礼拝

11月24日 主日礼拝

礼拝説教

伊藤大輔牧師


使徒言行録9章23〜31節

人はどう生きるのか。

生きるとは何か。

使徒言行録は登場人物を換えながらテーマを読者たちに伝えている。

ステファノの弁明に登場したヨセフとモーセ。

自分の賜物、使命を持っていた。

それは人からは理解をされない。

むしろ非難、拒絶、怒りの対象にすらなっていた。

それでも彼らは自らの使命を全うする。

自分の賜物を守り続けた。

自らの賜物、使命はどのようにして見つけることができるのか。

次の登場人物、サウロがそれを担う。

サウロは教会の迫害者。

ある時、強い光に照らされて目が見えなくなる。

そのサウロを助けに行けと、神はアナニヤに命じる。

アナニヤはこれを拒む。

サウロのこれまでしてきたこと。

それを知れば知るほど、彼を助けるなど、できはしないと。

それでも神はアナニヤに行けという。

アナニヤと神

なぜ違う思いになっているのか。

何が違うのか。

アナニヤはサウロの過去を見ている。

自然なこと、当たり前のこと。

過去が今を、今のサウロを形成していると思っている。

神もサウロの過去を知っている。

だが、神はサウロの過去を今に流入させてはいない。

今しか見ていない。

賜物を見つける。出会う。

使徒言行録は新しい登場人物を通して語る。

過去、未来、他者

全て、私にはどうすることもできないもの。

自分でどうすることもできないとは、そこに自分はいないということ。

自分はどこにいるのか。

今の私にしか私はいない。

ならば、そこからしか賜物を、使命を見つけることはできない。

更に進んで今の私に注目をする。

その時「これが賜物」と、自覚ができるものはないのか。

イエスを宣教することを始めたサウロはユダヤ人から命を狙われることになった。

サウロは周囲の協力も得て、何とか逃げ延びることができた。

なぜサウロは逃げたのか。

サウロのこれまでの行状から考えれば向かってくるユダヤ人と戦うこともできたはず。

サウロが捕まえようとしていた教会の者も、今、命を狙ってきているユダヤ人も、人数の差こそあれ同程度の市民だったはず。

サウロは人と戦い、相手を捕まえる術はいくらでも持っていたはず。

だがサウロは戦わない。

逃げる。

どうしてか。

神と出会ったから。

世界が分かったから。

世界とは何か。

神が造ったところ。

神が愛したことろ。

ならば、なぜ、この世界にあるものを否定しなければならないのか。

否定する。間違ったいると指摘をする。悪と戦う。

それは全て人が作り出した現実と称されるもの。

本当の世界は違う。

世界は神が愛しているもの。

これが私の賜物と、どうやったら分かるのか。

そこに愛はあるか。

愛が生まれてきているか。

サウロはユダヤ人を愛していた。

戦わず、逃げる。

神が大切にしているものをどうして壊すことができるのか。

夢解きをしたヨセフは自分を理解しない人々に囲まれていても彼らを愛していた。

ヨセフ物語の後半、家族との再会で、ヨセフのあふれだす感情の様を私たちは知っている。

モーセも民は全く理解をしてくれないが、それでも自らは入ることが叶わなかった約束の地へ、民を最後まで導き通した。

モーセは民を愛していたからではないのか。

ステファノは石打の刑にあいながら、「彼らに罪を背負わせないでくれ」と神に祈っている。

愛していたからではないのか。 

彼らはなぜ使命を貫けたのか。

自らの賜物を捨てずにいられたのか。

批判されても、拒絶をされても、なぜできたのか。

愛していたからではないのか。

それ以外に人が使命を全うする力はどこから生まれるのか。

賜物とは何か。

自らの賜物はどのように知ることができるのか。

これが賜物と分かった時に生まれるものがある。

愛が生まれる。

人はどう生きるのか。

使徒言行録、物語は語る。

賜物を大切に生きる。

今の自分と向き合って生きる。

だが、それは一つの言葉で表せる。

愛に生きる。

愛が人を人にする。


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