4月27日 主日礼拝
4月27日
主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
ルカによる福音書24章1~12節
神を知るとはどういうことか。
神を信じるとはどういうことか。
エルサレムからエマオに向かう二人の弟子。
そこにイエスが同行する。
だが、彼らはイエスだとは分からない。
イエスと話をしてから夕食の時。
イエスがパンを裂く。
その時、彼らはそれがイエスだと気がつく。
と、同時にイエスの姿が見えなくなる。
イエスの姿が見えなくなった後、彼らは振り返る。
「道であの人と話をしていた時、心が燃えていたではないか」
神を知る。神を信じる。
神を。「を」がついている。
「を」、目的格、客体を表す「を」
すなわち、主体である「自分」「私」の外にいるもの。
エマオの物語。
イエスを見ていた時、イエスと話をしていた時、彼らはイエスが分からなかった。
イエスが分かった時、イエスが見えなくなった。
そして「自分たちの心が燃えていた」ことを確認する。
彼らはイエスをどこで分かっているのか。
自分たちの経験、記憶、内省して、イエスを分かっている。
外にイエスがいた時はイエスを分かっていない。
イエスが分かったきっかけ。
イエスがパンを裂く。
最後の夜の食卓の風景。
聖餐式の起源となったもの。
イエスはパンを自分の体だと言い、ぶどう酒を自分の血だと言う。
パンとぶどう酒、これはどうなったのか。
その後、どこに行ったのか。
食べられ、飲まれた。
弟子たちの体の中に入っていった。
外にあるのではない。
中に入っていく。
神を知る。
外にある客体の神を観察しようとしても本当には神を知ることはできない。
主体である私を見る。私を探る。
神に似せて人は造られた。
神の息吹を吹き入れられて人は誕生した。
この命は神がいる故、神に由来してある命。
イエスだと分かった時、イエスが見えなくなった。
どこかに行ったのではない。
見えない。
人は自分は見えない。
私になった。
人は神の命を生きるもの。
世界の全てが良いと言った神の命を生きる。
ここが不足、あれが不満。
それは神の命を生きてはいない。
本当の私を生きていない。
この命が神の命であるならば何も恐れるものはない。
終わらないもの、永遠の命を私たちは生きている。
身体、心、それが朽ちたとしても朽ちないものがある。
それが命。
全てが良いと思えるか。
全てが私の中にあると思えるか。
「私」が全てを決めていく。
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