6月15日 三位一体主日礼拝
6月15日 三位一体主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
使徒言行録 14章1〜7節
パウロの伝道旅行。
会堂でなされる律法解釈。
パウロはイエスの言葉、行動を通して解釈を行う。
それを喜んだもの、不快に感じるもの。
分かれていく。
なぜ、別れるのか。
パウロは妨害に遭う。
批判、非難の言葉。
時に暴力にもふるわれる。
それでもパウロはやめない。
なぜ、続けるのか。
なぜ、別れたのか。
なぜ、続きたのか。
おそらく答えは同じところに根ざしている。
パウロがイエスを宣べ伝えるとなった時、彼に起こった出来事。
目から鱗のようなものが落ちた。
自分に張り付いていたものが剥がれた。
自分以外のものが剥がれ落ちた。
見えるようになった。
自分だけになった時に見えるようになった。
鱗、それはアダムとエバが食した善悪の知識の木の実と同じもの。
全てが与えられていたアダムとエバの生活。
彼らは神に似せて造られた、神とそっくりのもの。
その彼らに向かって蛇が囁く。
「お前には足りないものがる」
アダムとエバはコロッと騙される。
足りないから、不足しているから、自分を補おう。
自分以外のものを自分に貼り付けて自分を補おう。
善悪の知識の木の実。
なくても良いものを自分に貼り付けた。
目から鱗。
パウロはこれが自分だと思っていたものが、自分に貼り付けたもので出来上がっていた本当の自分でないものを自分だと思い込んでいた。
そこに気付く。
自分以外のものが自分から剥がれ落ちた。
本当の自分が見える。
自分のしたいことが見える。
非難の言葉。
暴力。
全て自分以外のもの。
そのようなものにもはや心を奪われない。
自分だけで勝負をする。
それが一番、気持ちがよく、一番楽しい。
なぜパウロは続けられたのか。
楽しいから。
なぜパウロの言葉を理解できないものがいるのか。
善悪の知識の木の実、これを食した時に人に起こったこと。
食べる前、
アダムは女性を見て
「これこそ私の骨の骨肉の肉」と言った。
私の骨がそこにある。
私の肉がそこにある。
目の前の女性。
それは私だ、私と同じだ。
善悪の知識の木の実、これを食べた後のアダムの言葉。
「あの女がたべろと言ったから食べた」
原因は私ではない。私は被害者。主犯は別にいる。
あの女と私は違う。
自分に何かを貼り付ける。
自分の形が変わっている。
私でなくなっていく。
ゆえに、私と同じだったものから遠ざかっていく。
あの女と私は違う。
自分には足りないものがある。
自分以外のもので自分を補おう。
違う自分になって行こう。
あの者と私は違う。
それが今のイスラエルとイランの間で怒っていること。
自分でないものを貼り付ける。
自分と相手とがどんどん遠ざかる。
パウロはなぜ伝道を続けられたのか。
なぜ、人々はパウロの言葉を否定したのか。
善悪の知識の木の実の捉え方で生まれたこと。
自分は不足している者だと思うのか。
自分には全てが備わっていると自分を信じるのか。
パウロが伝道を続けられた理由。
それが本当の自分の生き方だと思えたから。
自分を生きることが楽しかったから。
なぜ、人々はパウロの言葉を受け入れられないのか。
自分以外のものが自分に張り付いているから。
見るべきものが見えていない。
自分には足りないものがある、という歌が今や世界中で大合唱を始めようとしている。
どうすれば平和を作ることができるのか。
自分を信じること。
神の約束を信じること。
足りないものは何もない。
心、整え未来を築く。
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