7月20日 主日礼拝

7月20日 主日礼拝

礼拝説教

伊藤大輔牧師


使徒言行録15章36ー41節

異邦人に対して規則を押し付けない。

一致を見たエルサレム会議。

会議の後、教会は再び異邦人伝道を開始しようとする。

パウロとバルナバをその勤めに任じる。

その矢先、パウロとバルナバの間で衝突が起こる。

バルナバがマルコという若者を帯同しようと提案する。

これに対してパウロは反対する。

かつて一緒に働いていた時に逃げ出した前歴がある。

マルコはこの勤めにむいていないと。

バルナバとパウロの間に激しい論争が起り、ついには決別をするに至る。

それぞれバラバラに伝道に出かけていくことになった。

一つになったエルサレム会議。

その直後に主力の二人が分かれ分かれになっていく。

誰もが望んでいたものではない。

積極的に行いたいものではなかったはず。

それでも分裂、分かれは起こる。

どちらが正しく、どちらが間違っているのか。

白黒、善悪、優劣

私たちは分かれが起こった時、そういう切り分け、整理を行いたくなる。

だが使徒言行録はそういう判断をするような材料は提示していない。

実際、教会は分裂を繰り返してきた。

東方教会、西方教会に分かれる。

宗派、教派が生まれる。

カトリック、プロテスタントに分かれる。

教会は分かれることを繰り返してきた。

どちらが正しく、どちらかが間違っている。

そういう判断、評価もできるかもしれない。

だがその評価を求める前に私たちは歴史を視野に入れる必要がある。

教会が今日世界に広がっている。

世界中の至るところに教会がある。

どうしてあるのか。

分かれた教会がそれぞれに歩んで行って世界に広がった。

なぜ広がったのか。その原因は何か。

分かれたから。

分かれたからこそ教会は世界に広がった。

教会だけの話ではない。

私たちの生活で、家族でも、学校でも、会社でも、私たちは分かれを経験する。

それは辛く、悲しいものがほとんど。

だが、それが結論、最後の形ではない。

その先がある。

教会は分かれて、辛い思いをして、時には憎しみや怒りを伴いながら広がっていった。

次の教会の形を作り出していった。

人の思いでは否定したくなる分かれ、それも神の御手の中にある。

バルナバと決別をしたパウロ。

神を宣べ伝えるという同じ目的を持っていながら、どうしても一致することが出来なかった。

おそらく怒ってバルナバと決別をしたのであろう。

このパウロが晩年に記した手紙。

フィリピの信徒への手紙。

その手紙の中でパウロは語る。

牢獄にいる私を励まそうとしてキリストを伝道しようとするものもいる、逆に私を否定するようにしてキリストを宣べ伝えるものもいる。

だが、それがなんだというのか、どちらにしてもキリストが宣べ伝えられているのだからどちらでもいい。

生きるも死ぬもどちらでもいい。

富んでいても貧しくともどちらでもいい。

どちらでもいい。

手紙の中でパウロは「どちらでもいい」を繰り返す。

どちらから行っても行くべきところにはちゃんと行ける。

この道しかない、私しかない、私が正しい

そんなことはどうでもいい。

どちらでもいい。

どちらも正しい。

どちらから行っても世界ちゃんとしたところに辿り着ける。

世界はそういうふうに出来ている。

神が造った世界とはそういうところ。

そういう世界に私はいる。

どちらでもいい。

信じられるか。

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