9月14日 主日礼拝

9月14日 主日礼拝

礼拝説教

伊藤大輔牧師


使徒言行録17章10-15節

テサロニケでの難を逃れ、べレアに到着するパウロ。

ベレアの人々はテサロニケと違ってパウロに友好的。

自ら学び、パウロの教えに賛同する。

そこにテサロニケからの追手がやってきて再びパウロに危害を加えようとする。

ベレアの人々はパウロを逃がしアテネへと送り出す。

ルカの記した使徒言行録、ここではテサロニケの人々は批判的に記録されている。

一方、パウロ自身の記した「テサロニケの信徒への手紙」、これは穏和な手紙になっている。

同じ町の情報とは思えない、異なる言葉でテサロニケは記されている。

なぜなのか。

どちらかが間違っているのか。

パウロの信仰とはどういうものか。

パウロは律法に熱心なもの。

これは生涯変わらない。

ただ律法の捉え方、解釈はイエスと出会って全く変わった。

律法を大切にするパウロ。

それは律法にすがっていた。

依存し、支配されていた。

律法にしがみつき、握りしめる。

何故、そうする必要があったのか。

世界が怖かったから。

この恐ろしい世界を生き抜くためには自分一人では生きていけない。

自分以外の力のあるもの。

神様、それにすがらなくては生きていけない。

それが信仰だと思っていた。

イエスが教えてくれたこと。

信じるはすがることではない。

信じるは安心すること、委ねること。

世界は怖いところではない、良いところ。

イエスと出会ってからのパウロの信仰。

いかにして自分以外もの、

自分に張り付いているものを引き剥がすか。

それを生涯、模索する。

テサロニケはおそらくルカの記したようにパウロに対して批判的なところ。

ならば何故パウロはそのテサロニケに穏和な手紙を記したのか。

相手にしていないから。

敵対するもの、そのものたちの言動を心に貼り付けていない。

心、乗っ取られていない。

彼らは彼ら。

私は私。

自分と彼らの区別ができている。

パウロは支配されず、なすべきことを行う。

穏やかに自らの使命を果たす。

使徒パウロ。

パウロが使徒として語り継がれる理由がここにもある。

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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