9月28日 主日礼拝
9月28日 主日礼拝
礼拝説教
伊藤大輔牧師
使徒言行録18章1〜17節
パウロはコリントに到着する。
宣教活動に励む。
そしてここでもユダヤ人からの批判にあう。
神をしがみつく対象だと考えるユダヤ人。
神は、人が何にもしがみつかなくても良いようにちゃんとしたものとして造られたと語るパウロ。
神を信じるとはこの世界は大丈夫、自分は大丈夫と信じることとするパウロに対し
この世界は恐ろしいところ、それ故、神にすがらなければ、神のご機嫌を損なうようなことをしてはいけないと考えるユダヤ人。
どこまで行っても平行線。
ついにパウロはユダヤ人と決別をして異邦人の方へと行くと宣言をする。
だが、それは自分のこれまでを否定すること。
これまでの仲間、環境、それらと全てと決別をすることでもある。
そんな時、主の幻をパウロは見る。
「恐るな、黙っているな、私はあなたと共にいる。この町には私の民が大勢いる」
自らの信じることを行え。
この言葉に励まされパウロは宣教を続ける。
ガリオンが地方総督になった時、移管の不安定期にじょうじてユダヤ人がパウロを捕らえ法廷に突き出す。
何も知らないガリオンならパウロを裁いてくれると目論んで。
ところがガリオンはユダヤ人の訴えを聞くや否や即答する。
「お前たちの話には何の社会性も、将来性もない。
そんな小さな話を法廷に持ち込むな」
門前払いをする。
何かを握り締めなければいけない。
執着、固執をする。
当人にとっては一大事だが、そこには何の広がりもない。
それが社会の評価。
神の約束、自らの信じることを行ったパウロ。
その結果、自分を罵っていたものたちの社会的評価を知った。
とるに足らない。
神の約束、自らの信じることを行ったパウロ。
そのパウロが経験したもう一つのこと。
法廷から門前払いをされたユダヤ人たちは会堂長ソステネを不満の吐口として袋叩きにする。
理由は記されていないが恐らくはユダヤ人と共にガリオンへの直訴を計画した一人。
とんだ恥をかかされたことで怒りは首謀者へと向けられたと推察される。
その証拠にガリオンもこの様子を黙認をしている。
自業自得程度に見ていたものと思われる。
このソステネ、再び新約聖書に登場する。
今回の舞台となったコリントの教会に宛てたパウロの手紙。
その冒頭
「イエス・キリストの使徒となったパウロと兄弟ソステネからコリントの教会へ」
コリントでの騒動から手紙までの間に何があったのかは何の記録もない。
経過を記す記録はないがソステネはパウロの同労者になっている。
パウロを貶めようとしたソステネ。
時を経てパウロを支えるものになっている。
コリントの教会に仕えるものになっている。
パウロとソステネの間に何があったのかは分からない。
だがパウロがしたことは分かっている。
「恐れるな、黙っているな、この町には私の民が大勢いる」
パウロはこの言葉を信じた。
信じて行った。
私の信じること。
どこかにつながっている。
何かにつながっている。
未来に必ずつながっている。
思いを超えた何かを作り出す。
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