神とは

2019年3月3日

伊藤大輔牧師

使徒言行17章16-34節


「復活を信じる」

キリスト教信仰の根幹。

「復活を信じる」とはどういうことなのか。


パウロはアテネで「神」について語る。

アテネは哲学の都。

パウロにも哲学の素地はある。

話はかみ合っていたのであろう。

だからこそアレオパゴスの丘に招待をされた。

そこでパウロは語りだす。

そして復活について語る。

すると、あるものは笑い出し、

多くのものが立ち去った。

復活が絵空事に思えた。


復活が分からない。

アテネの人々の心はどのようなものなのか。

アテネには多くの神々が奉られていた。

人よりも神の方が多いと揶揄されるほど信仰にあつい都。

その様子を見てパウロは憤慨する。

信仰をはき違えていると。

 

アテネの人々の信仰とはどういうものか。

彼らは多くの神を信仰する。

なぜか。

不満が解消されないから。

この神に願い解決を得る。

だが、次の課題にその神が対応できなければ別の神様へ。

不満が生まれるごとに神は増殖する。

自分の守り神を作る。

ここには何があるのか。

心配がある。

不安がある。

恐怖がある。

それを取り除いてくれるのが神。

アテネの信仰。

それは私を助けてくれる神を探し、信じること。

それは私に仕える神を求めること。

神という名の奴隷を持つこと。

それは信仰ではない。

パウロは憤慨する。


神殿を、偶像をパウロは否定する。

神は人の力を欲してはいない。

神とは何か。

神は人の助けを必要としない。

何かを頼りにしたり、

依存したり、

支配されたりもしない。

神は神以外のものがなくても神としてある。


その神の一人子が復活した。

何が起こったのか。

支配されない。

死にも支配されない。

神は死よりも大きい。


人は死に怯え、

自らを助けてくれるものに執着する。


「悔い改めろ」とパウロは言う。

悔い改めとは何か。

表面の悪事も悔い改めの対象ではあろう。

だが、悔い改めとは反省ではない。

人の心の根源にあるもの。

「死」への怯え。

「死」を遠ざける助け手。

助け手への執着。

執着が私を支える源とする自己理解。

世界観。

それを問い直せ。

悔い改め。


私は支配されていない。

パウロもかつて世界が変わった経験を持つ。

執着は必要ない。

パウロには怯えがない。

故に迫害にあっても、

復活が理解されなくとも語り続ける。


正義、真実。

死を意識したら歪んでしまう。

死は小さい。

復活を信じる。

復活を信じるとはどういうことか。

世界が求める大切なことを行う力。

復活を信じる。

わたしの中に生まれてくる。


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