神の守り

2019年3月10日

伊藤大輔牧師

使徒言行録18章1-17節

聖書には裁判の場面が多く登場する。

私たちも終わりに日に「裁きの場」に立たされるとの表現もある。

裁判は私たちに無関係ではない。

裁判とは何か。


行為、言葉、思考、裁判で取り扱われること。

そして根本的に問われるのは「わたしは何者か」ということであろう。

それが義と認められるか、否か、私のすべてが問われる。


パウロも何度か裁判の場に連行される。

パウロを訴えた人々、

この者たちは「わたしは何者」としているのだろうか。

アテネの人々は偶像を量産していた。

コリントの者はパウロを執拗に付け狙い、ローマ帝国の総督に裁きを依頼した。

偶像を量産するもの、

権威にすがるもの、思考の構造は同じであろう。

エバを唆した蛇の言葉のごとく

「わたしは欠けているもの」。

それを補うために「偶像」「総督の権威」に依存する。

「わたしは何者か」

「わたしは欠けている」

「欠落を埋める沢山のものを必要とする者」。


一方のパウロ。

彼はユダヤ人に熱心に福音を語る。

だがそれは聞き届けられず、誹謗中傷される。

パウロはついに決断し、ユダヤ人との別れを宣言する。

同胞との訣別。

怒ったはずみではない。

パウロの心の現れ。

パウロは血に、民族に、国に、依存していない。

執着していない。

それゆえ別れられる。

捨てられる。

それは大きな決断であり、孤独の覚悟でもある。

そのパウロに神が語る。

「恐れるな。わたしが共にいる。この町にはわたしの民が大勢いる」。


それから一年六か月後、

ユダヤ人たちの手によってパウロは捕えられ総督ガリオンの前に連れ出される。

ユダヤ人がパウロの罪状を並べ立てる。

裁判が始まる。

「わたしは何者か」。

パウロが自らを語ろうとした時、ガリオンが割って入る。

「審判はしない」。


この町にはわたしの民が大勢いる。

ガリオンもその一人。

「わたしは何者か」。

パウロはこれを語らなかった。

わたしは何者か。

「わたし」は私が執着と固執から作り出すものではない。

私は何もしない。

語ってくれる。

わたしを見ている大勢の神の民が。

そして神がわたしの代わりに「わたし」を語ってくれる。

「わたしは何者か」。

答えなくてよい。

神がする。

わたし

ただ神を信じる。


裁きの日の「わたし」が築かれていく。

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