あとにひかない
2019年3月24日
伊藤大輔牧師
創世記31章1−21節
ヤコブの物語。
家族から追われ故郷を離れ本来の場所にいられない者の物語。
本当なら私はここではなく、あそこにいられたのに。
あそこが私の場所だったのに。
バビロン捕囚を経験したユダヤの民のみならず、
私たちの思いの中にもあるもの。
私のいるべき所、帰るべき所に人はもうたどり着けないのか。
物語はついにヤコブが自分の故郷に帰る決意をする場面を迎える。
そのヤコブの周辺で二人の者が奇妙な行動をする。
ヤコブの妻のラケル、その父、ラバン。
ラケルは夫ヤコブの故郷への帰還の決意に賛同する。
ところが彼女は出発の際に父の「守り神の像」を盗み出す。
目的は分からない。
ただ、これが父に知られればヤコブの計画が頓挫することは明白なこと。
案の定、父ラバンはヤコブの家族を追跡し、守り神の詮索にあたる。
このラバンはヤコブに追いつく直前に夢を見ている。
神から「ヤコブを一切非難するな」と。
ラバンもそれを承知したかの口ぶりでヤコブと対峙するが
実際は「守り神」のことで非難をしている。
ラケル、ラバン、この二人は行いと思いが離れている。
一つの示唆がここにあるのではないか。
本来の場所と離れてしまう。
思いと行動が離れてしまう。
それは私たち誰しもの姿。
理想と現実、
計画と実際、
分離の世界で私たちは暮らしている。
その世界でヤコブは自らを貫く。
ラケルが上手に「像」を隠したこともあり、
ヤコブはこれまでのラバンの不正を直接訴える。
本当は妻が隠蔽しいるものがあるにも関わらず、
それを知らないヤコブは自らの思いを主張する。
人はどのようにしたら本来の場所にたどり着けるのか。
私たちの現実は自分も含め「理想と現実」のように分離の中にいる。
一方ヤコブは分離していない。
思いと行動が重なっている。
元々は神がヤコブに語りかけたことが発端ではあったが、
ヤコブは思いと行動が一致している。
本当の状況はそれが許される状態ではない。
それでもヤコブの思いと行動は一致できた。
人は本来、自分の願い、理想を叶える条件を持っていない。
条件も持っていない代表であるヤコブに神は語る。
「あなたを必ずここに連れ戻す」。
罪人が神の前に出ていけるのか。
いけるはずがない。
人の現実設定では「分離」こそが我らの現実。
だが神の現実は違う。
必ず行かせる。
受難節。
主の十字架。
神の約束、神の愛を信じる。
わたしは私の場所に行ける。
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