終わりへの備え

2019年3月31日

伊藤大輔牧師          

ヨハネによる福音書18章1−11節

受難節。

主の十字架を覚える季節。

主の十字架は人の罪の故。

人の罪とは何か。  


主イエスと主を憎む者とが直面する。

武装した者たちが主と弟子たちの前に現れる。

イエスが尋ねる。

「誰を探しているのか」。

彼らが答える。

「ナザレのイエスだ」。

主が答える。

「わたしだ」。

このやりとりが数回繰り返される。

福音書はここで何を語ろうとしているのか。  

兵士は「ナザレのイエス」を探していると言う。

ヨハネ福音書中「ナザレのイエス」との表現はあと一回、十字架の但し書きの場面。

十字架にかかっているものは何者か。

「ナザレのイエス」と表記される。

「ナザレのイエス」これはイエスを憎む者たちの言い方。

これに対しイエスは「わたしだ」と言う。

「わたしはナザレのイエスだ」とは言わない。

のちに繰り広げられるピラトとのやりとりにおいてピラトが一生懸命イエスに

「お前はこういう者か、どういう者か」と尋ねるが、

イエスは「それはあなたが言っていることだ」と退ける。

ピラトの問い「真理とは何か」に対し、

福音書は明確な言葉を示さぬまま進行していく。


イエスはこういう者。

その規定は人の側が行い、

イエスは何も語っていない。

ただ「わたしだ」と語る。


人は幸福を求める。

真理を求める。

兵隊たちは「ナザレのイエス」を探す。

それは人の希求の姿。

何を探しているのか。

「ナザレのイエスを」「これを探している」。

はっきりと答える。

自分の求めているものはこういうモノだ。

言葉に置き換えはっきりと規定できる。

「私の願い」「真理」とはこういうものに置き換えられる。


これと直面した時のイエスの発言「わたしだ」。

これは英語で表記すればI am 原文のギリシャ語でも同じ形。

存在を表す動詞の次に述語が何もない。

はっきりとした規定がない。

置き換える言葉、

交換可能な内容がない。  


人の罪とは何か。

世界を、人を、私を規定できる。

「これはこういうもの」と置き換える言葉をちゃんと持っている。

その思いが「罪」。


I am これは聖書では神が自らを語る時の言葉。

神は何とも置き換えられない。

どんな表現も述語として用いるに十分ではない。

唯一無二。

掛け替えのないもの。


ヨハネ福音書はこのI amを神のみならず人が自らを語る時にも用いている。

目の見えなかったものが見えた時、

彼はこの言葉を語る。


掛け替えのないもの。

それが人だ。

あなただ。

どんな表現もあなたを語り尽くせない。

「わたしはわたし」。

十字架。

わたしにこびりついている「言葉」「述語」を洗い落とす。

わたしを支配している言葉は何もない。

神が実現したわたしの姿。 

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