わたしはどこに
2019年4月7日
伊藤大輔牧師
ヨハネによる福音書18章15-27節
主イエスの十字架。「神」と「人」が明らかになる場面。
主イエスが捕えられた後、ペテロはひそかにそのあとを追った。
大好きな先生、何かできることはないか。
方策はなかった。
それでも主のあとを追った。
主の取り調べが行われる大祭司の中庭、
そこに入った時、女中に声をかけられる。
「あなたは、あの人の弟子のひとりではないのか」。
ペトロは即答する。
「違う」。
一方、中庭ではイエスの取り取り調べが始まっていた。
「お前はいったい何者なのか」。
表面上はイエスが誰なのかを問いただそうとするもの。
だが彼らはすでにイエスが何をし、何を語ってきたかは知っている。
証拠となる情報は十分すぎるほど持っていたはず。
それでも問いかける。
「何者なのか」と。
この取り調べの真意は何か。
何がここで本当には問われているのか。
「あなたは違う」。
主イエスの言動を素直に見れば
「来るべきダビデの再来」「メシア」と判断しても良いものがそろっている。
にもかかわらず彼らはイエスに問いたかった、言いたかった。
「お前は違う」
「メシアでも、神の子でもない」。
「違う」と言いたい、
「違う」ものだとしたかった。
主イエスを追いかけてきたペトロはその後、
三度、自分はイエスの弟子ではないと主張する。
この場面で何が起こっているのか。
「わたしは違う」
「あなたは違う」
「違う」が人の言葉となっている。
「違う」。
エデンの園で人に芽生えた世界観。
「私は自分が思っているような者ではない」
「神の約束も真実ではない」
蛇に唆されて「違う」を人は原動力に生活し始める。
主イエスが捕えられる場面、ペテロの否定の直前
主は「私だ」と言う。
I amと。
ペトロは「違う」 I am notと言う。
テキスト上は本人のセリフとして二回、語り手の言葉として一回。
これは主イエスの I am の回数と符合している。
人は否定をする。
人を、
世界を、
自分を否定し、
傷つけ争い、
破壊していく。
それが人。
神はそんな人を良く分かっている。
だから、その前に告げる。
I am notではなく I amだと。
ペトロをその言葉に辿り着かせるために。
人が、私が、世界がその自己理解を獲得するために。
神は準備をしている。
「人」は何者か。
「否定」で考える。
「神」
徹底的に「肯定」をする。
「肯定」、「愛」とも言う。
神の愛が浸透しながら十字架の出来事は、この世界は進んでいく。
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