神はいらない

2019年4月14日

伊藤大輔牧師          

ヨハネによる福音書19章1—19節  

主イエスが十字架にかかる。

なぜかけられたのか。

人々の訴え

「神の子と自称した」

「王と自称した」から。

しかしそんな発言をしたものはいくらでもいた。

そもそもイエスはその発言をしていない。

なぜ十字架にかかったのか。


祭司長がピラトに詰め寄る最後の言葉「私たちには皇帝の他に王はいない」。

この記述は福音書が記された時代を映し出す言葉ではないのか。

ヨハネ福音書はイスラエルがローマ帝国に亡ぼされた後に記されたもの。

ユダヤ教を、その後のキリスト教を信じていた人々

彼らは期待していた、守られるのを、戦争に勝利するのを。

しかし殲滅された。

家族を、国土を奪われた。

主イエスは確かに奇跡を起こし、人々を救った。

だが、その人数は何人なのか。

国民の何割なのか。

ほとんどの人にとっては関係がない。

それ故、多くの者は思ったはず「どうして私は助けてくれないのか」。

神はなぜ私を助けてくれないのか。

イエスの周辺にいた人々、

敗戦を経験した人々、

同じ思い。

「皇帝の他に王はいない」。

言い換えればこうなる。

「神はもういらない」。 


人はなぜ神をいらないと言うのか。

私の中に神のイメージがある、

神への期待がある。

それが叶わなければ、

予定と違えば

「いらない」と言う。


ピラトは「お前は皇帝の友ではない」と言われ慌てる。

ペテロは助かるために「私はイエスの弟子ではない」と言う。

みんな自分を表す言葉「私」という主語を説明する述語に必死になる。

主語「私」「私たち」「世界」「未来」そこに続く述語を皆準備している。

その述語の獲得のために、

幸せのために努力をする。


日本の繁栄

世界の安寧

日本、世界、

この主語に理想的な述語を収めるため働いてきた。

だがその現実は環境破壊、戦争の繰り返し。


人は述語を求めると破壊を始める。

遠くの何かを、

誰かを破壊する。

やがて破壊は近づいてくる。

私たちへ、

私へ。

歴史の中で何度も経験してきたこと。


遠くの神を十字架につける。

私を十字架につける準備を始めている。


人は述語を求めれば破壊を始める。

主イエスはご自分のことを「私はある」と言う。

I amと言う。

述語がない。

述語は人が作り出したもの。

自分の分かる世界を表す言葉に主語を押し込めること。

「神」

「世界」

「私」

人の作った言葉に収まりはしない。

人の思いを超えてもっと大きい。


「私」に続く述語をわたしが捨てられるか。

十字架の前で私たちは問われている。 

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