本当にしたいこと
2019年7月14日
伊藤大輔牧師
使徒言行録21章1-16節
聖書の登場人物、主人公は私たち読者のお手本です。
この箇所に登場するパウロも、私たちのお手本であると同時に、
パウロもお手本を持っていました。
イエス・キリスト、この方がパウロのお手本であったでしょう。
私のお手本として聖書を読む。
それもひとつの聖書の読み方です。
ただこれをお手本としても私たちは困ってしまうところがあります。
苦難、迫害、殉教、これをお手本にすることは無理なこと。
キリスト教信仰とは無理なことを乗り越えて頑張らなければならない宗教なのでしょうか。
この物語を読み解いてみましょう。
パウロは地中海の北で「エルサレムに帰る」と言い出します。
エルサレムはパウロにとって危険な場所だとは誰もが知るところでした。
何もエルサレムになど帰らなくともいくらでも働きはあると思われます。
ですからパウロの近しい者たちはエルサレムへの帰還に反対します。
反対者は「霊に導かれ」「聖霊に教えられ」と
独りよがりの思いつきでない言葉と設えられています。
聖霊がパウロのエルサレム行きをとどまるように言っている。
にもかかわらずパウロは「主イエスの名のためならばどうなってもいい」と言います。
聖霊に逆らってまで、パウロはエルサレムに行こうとする。
何がパウロをそこまでさせているのか。
「主イエスの名のためならどうなってもいい」。
殉教を覚悟した力強い言葉。
ただ、この場ではこのような表現になっていますが、
日常的には、このパウロの思いとはどのようなものだったのでしょうか。
この発言を生み出しているパウロの思い。そ
れは複雑な論理構成からのものではないでしょう。
人の力になるものはおそらくいつでもシンプルなもののはず。
パウロの思いにあったもの。
イエス様が大好きだった。
神様が大好きだった。
大好きな方のためにすること、できることがあれば、それをする。
それが自分の命を落とすことであっても大好きな気持ちには抗えない。
聖書は敗戦の体験から生まれた言葉。
全てを失ったものが最後まで持ち続けるもの。
どんな時にも希望になりうるもの。
「大好き」と言う思い。
全てを失っても、失うことになっても、その思いで人は進むことができる。
「愛」で人は生きます。
生きていけます。
「大好き」という心。
それを培っていくのがキリスト教という宗教の信仰生活です。
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