正々堂々

2019年10月6日

伊藤大輔牧師

使徒言行録24章1-23節 

本日は世界宣教日。

宣教とは何か。

どのようになされるものなのか。 


パウロは総督の前で裁判にかけられている。

大祭司、長老についている弁護人はパウロの罪状を弁舌し、

『ナザレ人の分派』というレッテル付けまでを行い、悪印象を巧みに植え付ける。

これに対して、パウロは自らの身の潔白を主張するのが通常であるが、

よく読むと、彼は自らの信仰の告白をしている。

私が信じているものはこういうものだ。

復活を信じている。

それのどこがいけないのか。

またさらには、彼らのレッテル付の『分派』との表現もそのまま受け入れている。

この答弁でパウロは何をなしているのか。  


ユダヤ人はパウロを法廷へと連れ出した。

そこでパウロを断罪すれば、教会が非合法なものと認定される。

法の元で教会の撲滅を行おう。

彼らの狙いは間違いではない。

良くないものがあり、それを放置しておくことを防ぎたいと思えば、誰しもが実行する。

法で答えを出そうと。  


ユダヤ人は法で教会が有罪化されれば、自分たちは勝利すると思っていた。

パウロを裁判の席につかせる、そこで計画は成功すると考えていた。

だがユダヤ人は見誤った。  


パウロは自らの罪が問われることを恐れてはいない。

自分の正当性を主張することにも興味を持っていない。

裁判。

人々が注目をするところ。

耳をすませ、そこで語られるものを咀嚼しようと多くの人が集中するところ。

パウロは裁判の性質を知っていた。

そしてこの性質を存分に利用する。

裁判の席。

メディアとして用いる。  


宣教はどのようになされるのか。

私たちは宣教の仕方に、あるスタイルを想定しているのではないか。

集会、学習会、等々。

キレイな上品な伝達が宣教にはふさわしいと。

それも間違いではなかろう。

ただ、裁判の席とは社会を逸脱したと人々から否定された人間が行くところ。

最低の場所。

そこでパウロは福音を語り始める。

私たちは宣教には宣教にふさわしい場所があると考えてしまう。

良い聴衆がいて初めて宣教は成立すると思うこともある。

パウロは聞き手が全員、敵であっても、自分の命を狙っているものたちであっても、

そこで語り出す。

そこで語られた福音は2000年続き、

ここに到着し、

ここを超えてさらに進んでいく。  


宣教とは何か。

人の目に相応しくないと思えるところに神の備えがある。

信じて、語り始める。     

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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