私は恥じない

2019年10月20日

森下滋伝道師 

サムエル記上1章1-20節 
ルカによる福音書1章18-25節 

エルカナはハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。

現代まで続く悩みである。

しかし愛を妨げるのは人間の思いや行動である。

もう一人の妻ペニナはハンナを敵としてみていた。

ハンナに子供が産まれては困るのである。

男と女の間に子孫が無いことは正常では無い事を意味するのか?

男も女も共に等しく神の似姿であり、性は子孫を残すためだけのものではない。

 

エルカナはハンナを愛していたが、愛が分からなかった。

食事も与えて心配もしているがハンナの苦しみは分からなかった。 

ハンナは立ち上がり祈りを捧げた。

息子が与えられたならば神に捧げると。

神が与えるその息子を神に返してしまうと。

何故か。

息子がいないとまたもやペニナに付け込まれるのではないか。

 この真摯な祈りを老祭司エリは読み間違えてしまう。

ハンナが酔っていると誤解したのだ。

ハンナは酒ではなく心からの祈りを注ぎ出していた。

エリはハンナを家へと帰した。 


やっとエルカナは妻ハンナを知った、即ち性関係を持った。

と言うことはこれまでは愛していたが知る事は無かったのだ。

ヘブライ語の知る(ヤーダー)は性関係を持つ事をも含意するが、

自分達の愛だけではなく神の愛が注がれている時に本当に知る事が可能になるのである。  


そして胎は開かれ新しい命が与えられた。

その名はサムエル、主の名は神と名付けられた。

 

主はハンナを思い出し顧みた。

しかし後代の祭司ザカリアは大天使ガブリエルに楯突いた。

そしてその口は閉ざされた。

しかし子供が与えられない事を他人により恥じていた妻エリザベトの胎は開かれ、

主によって恥は取り去られた。 


この主に従う事を何故隠し恥じるのか。

恥じていないならば人々の前で主を賛美出来るはず。

この主に従う私は全ての恥を取り去って頂けると。

主は私を思い出してくださる。私は恥じない。 

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