「教会の時間」
2019年11月3日
伊藤大輔牧師
使徒言行録25章1-12節
本日は召天者記念礼拝。
信仰の先達を覚える日。
先達が私たちに伝え、
私たちもまた次のものへと渡していこうとしている信仰とはどのようなものなのか。
パウロは自ら進んで囚われの身となる。
パウロの命を狙うユダヤ人は、総督にパウロをエルサレムへ送還するよう申請する。
だが裁判の過程でユダヤ人たちの訴えに根拠がないことが明らかになっていく。
「無計画」感情的なものと「計画的」なもの。
信仰は一時の気の迷いではない。
裁判の席でパウロは総督に尋ねられる。
「お前はどこで裁きを受けたいか」。
パウロは答える。
「皇帝のもとで」。
パウロは皇帝のもとローマへと送られる。
ローマ。
その時代の世界の中心。
信仰とは何か。
世界の中心で、世界中で響き渡るもの。
それは今の時代も変わっていない。
信仰は、個人、家族の救いにとどまるものではない。
ならば現代において信仰はどんな働きができるのか。
ユダヤ・キリスト教はエデンの園から、その物語を始めている。
楽園で暮らしていた人間。
そこに蛇が現れ「お前には足りないものがある。それを補え」とささやきかける。
人はその言葉に魅了され木の実を食べ、楽園を追放される。
異常気象が続いている。
原因として疑われているのはCO2。
今年開かれた国連気候アクション・サミットにおいて
その参加国に515の世界の主要機関投資家が注文をつけた
「CO2を削減しないものには融資をしない」。
環境問題から生まれるリスクはリーマンショックの比ではないとも言われる。
経済、生態系、
これを破壊するCO2はこの星のものが取り組まなければならに緊急課題。
そもそもCO2とは何か。
人が幸福を求め、
働き努力をした結果生まれたもの。
幸福の証し。
人はなぜ働いてきたのか。
今も働き続けるのか。
「私には足りないものがある」。
蛇の言葉が誰しもの心にささやかれているからではないのか。
蛇の言葉を乗り越える。
私たちが神様から「十分にある」との示しを信じ求めていく道。
信仰はもはや家族や仲間内の問題ではない。
この星を守れるか否かの問題となっている。
私たちが引き受けてきたものの意義を確かめたい。
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