「捧ぐるは愛のみ」

2019年11月17日
                              森下滋伝道師

                   サムエル記上1章21-28節            マルコによる福音書12章41-44節
  毎日生きている中で、誰からどう見られているかを気にして生きなくてはならない社会は厳然として存在する。男性が女性を所有物だと思って生きている社会も存在する。韓国でも日本でも自分の生きづらさをフェミニズムのせいにする男性は多い。こんな社会の中では普通に恋愛や結婚という人生を楽しみたい女性も常に男性の視線や注目を惹こうとして生きている傾向がある。自分らしさはどこへ追いやられるのか。
  ハンナは恥じなかった。自分の苦しみを主に祈りぶつけた。主は恥を取り去り彼女を顧みた。神の愛の証は息子サムエルであり、名の意味は「その名は神」。しかし折角与えられたその息子をハンナは神にお返ししようとしている。v23の後半「ハンナはとどまって子に乳を与え、乳離れするまで育てた」の子だけが息子の意味。他は全て「若い男」の意味のヘブライ語が使われている。そしてv24で「息子」は「子」となる。母の愛が無条件に注がれる時に「若い男」は「息子」になることが出来、更には神に捧げれられる時に「子」とされる。神に委ねられた子は「神の子」として祭司に預けられた。v28の「私」はヘブライ語で挿入されている人称代名詞。つまりハンナがエリに対して主に祈ったこの「私」が「子」を神に委ねるのだと言うことを強調している。そして「子」を委ねるは「捧げる」が原意であり、完了形である。すなわち息子が産まれる前から子を神に捧げていたのである。
  主イエスもエルサレムの神殿にて人々が賽銭箱に献金をする様子を見ていた。金持ちは多く捧げたが、それは未完了形で書かれている。そこに来た一人のやもめはイエスの事を聞いてそして来た。そして生活費を全部捧げた。生活費はギリシャ語では存在が原意。即ち彼女は彼女の持つ全て、彼女という存在を捧げた。主イエスはこの事を弟子たちに教え、今も私たちに教え続けている。
  私たちは何を捧げているのか?主が私たちを愛して下さるように主を、キリストの体である教会を、私たちの隣人を愛しているか?いくら、どこで、いつ捧げるかは小さなこと。誰に何を私たちは捧げたか?神に捧ぐるは愛のみ。金銀よりもまず私たちの愛を見える形で捧げる。金持ちは金が尽きてもその献金は終わる事がない。やもめは全てを捧げてその全てを主は喜び受け取って下さり良いものとされた。しかしやもめが捧げたのは一度きりでは無い。主イエスの弟子となり捧げ続ける者となった。私たちは主イエスの弟子になっているか?


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