「もう産まれる」

2019年12月15日 

森下滋伝道師

ルカ2:1-7

 一神教が嫌うことは偶像崇拝である。これに対して神は心の中にあって、私たちの心の思いが神という存在を作り出した、だから神などいない、という無神論が多く聞かれる昨今である。しかし私たちの心の思い、願いだけではこの世に新しい生命が産まれることはない。そのことをマリアは1:47-55で賛歌として歌った。私たちの行いは神が喜ばれる時にのみ光となる。

 v1‐3で人間による強大な支配がユダヤ人の前に現れた。皆、その支配に従った。住民登録を行うということはその匡、その支配者のシステムに組み込まれるということ。反乱してもダメだ。ユダヤはますます弱められローマ帝国はますます強大化した。

   v4でヨセフも従った。しかしその狙いは自らのダビデの血筋である出自を明らかにし、異邦人のガリラヤはダビデの町ベツレヘムを目指した。正にv5が示すヨセフの目的はマリアと共に登録することである。マリアはヨセフに対して結婚の誓約をした女性。そして彼女は妊娠していた。1:27で初めて登場するヨセフはこのことを知っており受け入れていた。

 v6からはv1‐3の人間による支配という古い物語に対して、新しい物語が語られる。ここからは読者である私たちにとってはすでに起きた事実が語られている。マリアは月が満ちて、ヨセフと共に二人は充足させられ、マリアは出産した。v7で初めての子を産んだとあるが、新約聖書内ではヘブライ1:6「神が子供を産んだ」以外に用いられていなし。このもとにある旧約サムエル記下7:14では「神が初めての子を産んだ」と記されている。v6でベツレヘムに滞在中に産気づいたとあるが、なぜその時その場所でなのか。1:31-33が示すようにこの初子はダビデの王座に就き、その支配は永遠に終わらないのだ。

 一方サムエル記下24章のダビデ王の失敗と悔い改めでサムエル記は閉じられている。何に失敗したのか。ダビデ王は人口調査を行ったのだ。そして神の怒りをかった。そして今、皇帝アウグストゥスに対する真の支配者が現れた。私たちは誰に従うのか。神の子は家もなく裸で生まれ布に包まれ、十字架で死んで亜麻布に包まれた。主イエスは「もう産まれた」、私たちのために。私たちを死から救い、共に永遠に生きる者として招くために。




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