使命に生きる

2020年2月2日

伊藤大輔牧師  

使徒言行録26章24-32節  

使徒言行録、パウロを主人公にした物語が終わろうとしている。

最後にあたり改めて考えたいことがある。

この物語を記したルカは何故、パウロを主人公に仕立てたのか。

初代教会で活躍した者は他にもいたはず。

手紙を残した者も、

死を恐れず殉教した者も

他にも大勢いた。

改心をした者も一人や二人ではなかったはず。

どうしてパウロなのか。


結論から言うなれば、信仰者の手本、

それにもっとも相応しいのがパウロだから。

ならばパウロのどこを我々は手本にすれば良いのか。

パウロという人物は一体、どんな人物なのか。  


ルカが伝えたかったパウロの姿を凝縮した言葉が、今日の聖書にある。

弁証をしているパウロが最後に語った言葉。

「私のように誰もがなってほしいと祈っている」。

これがパウロの伝道の言葉。

私たちは人に教会を勧める時にこのような言い方はしない。

傲慢で、自惚れているように思われるから。

そもそも「自分のようになってほしい」と、

人に勧められるほど自分を立派なものと思っていない。

パウロとてそれは同じはず。

パウロも自らの人生の歩みを人に勧められると思ってはいないはず。

ならば「私のように」この表現に込められたパウロの思いとはどんなものなのか。  


「私のように」この表現を生み出している精神構造は

自らを全く疑わない自己肯定であろう。

自らを疑っていてはこのようには言えない。

自分を疑わない。

自分を否定しない。  


楽園で蛇が人に語った「お前には足りないものがある」

それは「今のお前では今はダメだ」と否定が語られている。

自己否定。

その自己理解を人は信じ込んだ。

それから人は自分の欠けたものを補うため

「知識の木の実」に象徴されるこの世の価値あるものを蓄えようと食べ続ける。  


キリスト教は食べる宗教。

キリストの体を、神を食べる。

パウロもすでに聖餐式を守っている。

足りないから補うのではない。

全てが、永遠の命が与えられていることを思い出すために食べる。


私は全てを持っている。

否定をする自己確認は生まれてこない。

完全な自己肯定。


「私のようになってほしい」。

食べるのは自己否定に脅かされて欲する善悪の知識の木の実ではない。

自らを肯定する喜びからキリストの体を食べる。

 

なぜルカはパウロを選んだのか。

自分を認め切る、

神の作品だと疑わない強烈は自己肯定を持っている、

神の恵みに生きる信仰の姿がある。 

日本基督教団本多記念教会オフィシャルサイト

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