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2020年3月8日

伊藤大輔牧師            

使徒言行録28章11−30節 

 使徒言行録を読み終わる。

後半の主人公はパウロ。

パウロのローマでの姿を記して物語は終わる。


パウロは一体、何を獲得したのか。

パウロとは何者なのか。

物語の最後にそのことを確認したい。


パウロは船でローマに向かう。

船旅は難破もし、他方、順調に航行もする。

私の思い通りにならない。

それはパウロの人生なのではないか。


律法の専門家として順調な人生を歩もとした。

ところが、その価値観ががっらと変わる。

思いとは違う人生を歩み出す。  


ユダヤ人に訴えられ、無罪を獲得しながらもカエサルに上訴しなければならなくなる。

不条理な思い通りにならない人生。  


ローマのユダヤ人に伝道をした結果、彼らの考えが別れていく。

パウロはイザヤ書の一節を引用して、彼らを批判する。 

「聞くには聞くが悟らない。見るのは見るがで認めない」。 

目の前のものが分からない。

なぜそのようなことが起こるのか。

目の前、すぐそばのもの

それが分からない

心が外に向いていない。

外に向かない心は内側を向いている。


エデンの園で蛇に勧められた「善悪の知識の木の実」。

大切なものの区別ができるのだから素晴らしい能力のはず。

だが、そもそもエデンの園とはどんなところだったのか。

神が自分の造られたものを見て、全てが「良い」と言われたところ。

ただ「良い」だけがあるところ。

そこに「善悪」を持ち込んだ。

本来神が人に与えてものではない。

それは人の手に負えないもの。

自分では解決のできないものを抱えた人間は出口が見つけられず、そこにからみとられ、支配される。

心が「区別」に縛られる。

「正しい/悪い」

「成功/失敗」

「幸福/不幸」

「生/死」


 コロナウィルスの一件。

私たちは「予防/拡散」「健康/病」「生/死」の区別の前に立たされる。

これの選択をすることはもちろん大切なこと。

だがそれが思い通りにならない時、

人は、社会はどうなるのか。


選択が予定と異なった時、

思い通りにならない時、

絶望が目の前に迫ってくる。

その時にも宗教にはまだ言葉がある。


「それが一体どうしたというのだ」


主イエスは自らの身体のことで思い悩むなと言った。

身体のことをどんなに考えても人には答えを出せない。

私にはどうすることもできないものだから。

どうすることもできないものにいつまでも引っ張り回されるな。


どんなに考えても思い通りにならない。

それは私のものではないから。

自分の解決のできないものを抱え込むと人はそれに囚われ、支配される。


パウロは何を獲得したのか。


物語の最後、パウロは誰の訪問も受けたとある。

区別などしていない。

あれ、これ

人が出来ると思い込んだもの。

そのような思考はこの世界では必要でなない。

世界には「区別」はない。

「良し」だけがある。


パウロは「ローマで自由に大胆に語った」とある。

思い通りにならない人生、

鎖に繋がれた生活。

そのパウロの姿を表して聖書は「自由」だと言う。

パウロは自由であると。


パウロは何を獲得したのか。

自由を獲得した。

何にも支配されない。

何にも怯えない。

まことの自由。


生と死の区別ももはやない。

永遠の命。

今、自分はただ「良い」というだけの世界にいる。 

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