「私次第でないもの」

2020年3月15日伊藤大輔牧師            

創世記37章12−36節 

創世記、ヨセフ物語を読み始めている。

家族の諍いの話。

弟ヨセフが兄たちに憎まれ勘違いから死んだものと思い込むところから物語は始まる。  


今日の聖書はヨセフが兄たちから穴に放り込まれる場面。

ヨセフのことを兄たちは憎んでいた。

父ヤコブが溺愛するから。

皆、それぞれに自分勝手なことをしている。

登場人物たちの思いは皆バラバラになっている。

だが、その一方で物語には一つの統一、構造がある。

構造、テーマがこの物語を作っている。

その構造とは何か。  


ヤコブはハランで働いていると思っている息子たちのところへ

晴れ着をまとったヨセフを見張りに遣わす。

ヨセフは兄たちがハランにいるものと思っていたがそこから遠くへ移動していた。

兄たちはヨセフを殺そうとするがルベンとユダによってその計画は変更される。

商人に売り飛ばそうと策略するが目を離したすきにヨセフの姿は消えている。

野獣に噛み殺されたものと思い衣を家畜の血で染めて父のところに持って行く。

息子のヨセフはすぐに帰ってくるものと思っていたヤコブは思いもよらぬ報告を受けることになる。

 

この物語の構造は何か。

ヤコブはヨセフがすぐに帰ってくるものと思っていた。

それが違った。

兄たちはヨセフを売り払おうとした。

それが叶わなかった。

ルベンとユダはヨセフを助けようとした。

それも実現しない。

ヨセフ

家族を信頼していた。

それも彼の思い込みだった。


この物語で共通していること。

それは登場人物たちの思いは全て外れてしまっているということ。

思いと現実が重ならない。

願いが実現しない。

どうしてこんなことが起こるのか。

物語の構造にあるものは私たちの日常の経験。

私たちの心がここに描かれている。 


何故、人は抱えきれに不条理を背負わなければならいのか。

どうして私の願いは聞き入れられないのか。  


素晴らしい働きをし、まだまだ楽しい時を重ねられると思っていた矢先、

突然の別れをしなければならなくなる。

代官山ノエルでキャンドルと並んで皆に喜ばれているゴスペル。

そのゴスペルをノエルに導いてくれた姉妹を私たちは昨日、天へと見送った。


不条理

受け入れ難い現実


誰しもがもう味わっている。

愛する者との別れ

そして、自らの死の時


受け入れたくない現実。

心に収められない出来事。


ヨセフの見た夢。

家族が自分に跪く夢。

ヨセフは無邪気に語ったのであろう。

だが聞いた兄たちは、そんなことは受け入れられない。

そんな夢が実現すれば、それは屈辱的な出来事と考える。

受け入れられないもの。

排除したいもの。

悲しみ、怒り

人はそれを抱え苛立つ。  


何故、思いと現実が乖離する不条理としか思えないものを人は経験するのか。

神はそれをどうして人に与えるのか。


ヨセフ物語の先を私たちは知っている。

夢は現実となった。

兄たちはヨセフの見た夢の通りヨセフに跪いた。

だが、それは屈辱でもなんでもなかった。

喜びの再会。

驚きの時であった。  


何故、受け入れ難い現実を人は味わうのか。

私たちが、この物語を信じるならば、こう答える。

神が備えた歓喜の出来事を知るために人はその道を歩む。  


「いつも喜んでいなさい」とはパウロの手紙の言葉。

私次第にはならないものを私たちは抱える。

喜んでなどいられないと思ってしまう。


私次第にならないもの。

その先には必ず神の備えがある。

悲しみ、憎しみ、

その感情はやがて喜びで覆われる。

私たちは今も、神の道を歩んでいる。

その恵みを信じ、この時を進み行きたい。 

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