8月23日礼拝

伊藤大輔牧師

ヨハネによる福音書4章13−14節 

 私たちの人生にもし目的があるとすれば、それは何か。  


ユダヤと仲違いをしているサマリアに主イエスの一行は立ち寄らなければならなかった。

 正午頃、イエスは井戸のそばで休息をとる。

 炎天下、誰も水汲みの作業などしない時間。 

一人の女性が井戸に水を汲みにやって来る。  

その女に主イエスは「水を飲ませてくれ」と声をかける。 

仲違いをしている地方の者。 

女はユダヤ人のイエスの言葉など真面目に聞こうとしない。  


このサマリアの女、主イエスと距離を持とうとするが、

彼女が距離を作っているのはイエスに限ったことではない。 

この女には五人の夫がいた。 

今、暮らしている男は夫ではない間柄の者。 

当然、世間は彼女と親しくはしない。 

女も世間との距離があることを当然と弁えていた。 

距離のある生活。  


これはこの女に限ったことではない。 

私たちも距離を抱えている。

夢、希望、予定、計画。 

それが私に近づき、そばにあるかと言えば、

残念ながら、それらは未だ私にたどり着いてはいない。 

距離がある。 


私の体も同じこと。 

思いはあっても体が思うように動かない。 

思いと体の間に距離がある。 


家族、友人、 近くにいて、一緒だった彼らもだんだんと遠くへ去っていく。 

そして、いつの日か、私もこの世界と離れざるをえない。 

 距離を抱えて私たちは生きている。  


すべてのものと離れている女が主イエスと出会う。 

イエスは女に近づき声をかける。 

「あなたの飲む水は一時、体を潤すがまた渇く。 

私が与える水はその人の中でいつまでも湧き出る泉となり命の水となる」 


遠くへ行かない「水」がある。 

 主イエスは離れたままではいない。 

近づいてくる。  


女はイエスに尋ねる。 

「私たちはこの山で礼拝をすること。神様を大切にすることが大事だと教わってきました。

あなた達ユダヤ人は礼拝をするのはエルサレムだと言っています」 

あの山か、エルサレムか。 

距離を聞いている。 

礼拝する場所。 

神様と私の間にも距離はあるのですよね。  


イエスが答える。 

「この山でもエルサレムでもないところで礼拝を捧げる時が来る。 今がまさにその時だ」


女は期待を込めて尋ねる。 

「メシヤと呼ばれる救い主がいつかどこかにやってくると私たちは信じています」

メシヤはいつかどこかに

 私が行ける場所に来るのか。 

私が生きている間に来るのか、 

それは分からないがメシアを信じている。 

 いつか、どこか、 

メシアと私の間には距離がある。  


イエスは答える。 

「それは今、あなたと話をしている私だ」と。


距離はない。 


すべてが遠のくと私たちは思っている。 

その私たちが人生の中でしなければならないことは何か。 

遠のく世界に暮らしていた女が経験したこと。 

イエスと出会う。 

永遠と出会う。 

私のうちで尽きぬ泉となって湧き上がる水による命。 

永遠の命。 

私の体は有限なもの。 

朽ち果てるもの。 

その有限なるものが自らの命について知る。 

私の命は永遠の命。 


 私の人生はそれを知るためにある。 

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