8月30日礼拝
主日礼拝
伊藤大輔牧師
コリントの信徒への手紙Ⅰ12章4ー6節
「衝突」「争い」
国どうしもあれば、個人の間でもある。
また、現実という「壁」と衝突することもある。
戦意を覚える相手と向き合った時、人はどうすればいいのか。
パウロの時代にあったコリントの教会では「衝突」があった。
幾つかの衝突があったようであるがパウロの姿勢は一貫している。
「誇り」が問題なっていた衝突もあったようである。
「誇り」とは何か。
誇りを持つことを批判されることは少ない。
むしろ誇りを持つことは奨励され、さらに誇りになるものを探してもいる。
「誇り」とは何か。
努力、経験、歴史 それらを通して社会から賞賛されるモノを築き
それを自らに引き寄せる。
賞賛されるものと自らを同一化する。
自分の力でかち取ったのだから恥じるものではない。
だが、パウロはこれを問題視する。
パウロにも誇りはあった。
家柄 功績 たくさんの誇れるものがあった。
そして、この「誇り」を巡って争いは起きる。
「誇り」が汚された。
「誇り」が踏みにじられた。
戦いの正当な理由とされる。
パウロは自らの「誇り」はごみくずと一緒だという。
「誇るものは主を誇れ」とまで言う。
パウロのこの発想に至る考えはどのようなものなのか。
パウロは手紙で
人の表面に現れている行動、役割はそれぞれ異なっていても
その根本には「霊」があると言う。
どのような人の中にも「神」があると言う。
敵、私と違う価値観、行動様式 誇りを踏みにじるもの
その者の内にも「神」はいる。
目に見える「誇り」にしがみついていれば、
それを原因に争いは生まれる。
見えるものなど、どうでもいい。
なんでもいい。
見えないところに神がいる。
コロナ禍
ウイルスとの戦い。
ウイルスを撲滅することが私たちの目的になっている。
だが、この状況に神はいないのか。
神が悪魔との戦いに劣勢になってウイルスが猛威を振るっているのか。
教会の信仰にそのような考えはない。
神が負けている時間などない。
「勝敗」という表現を使うならば神はいつでも勝利している。
ならば、このコロナ禍においても神は勝利している。
この現実に神はいる。
私たちはこの現状の中にも神を見出さなければならない。
争い、衝突 これと直面した時に、
私たちはどうすればいいのか。
憎まない。
受け止める。
愛する。
神を見出し、
それに聞く。
次の一歩が始まる。
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