9月20日 主日礼拝9月20日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 28章17~31節使徒言行録を読み終わる。パウロが見つけたものを「理」と表現してきた。「理」とは何か。辞典、意味を説明、言葉を納得することが「理」ではない。「理」とは行動、生き方でしか表せない。パウロのクレタ島での行動。蛇に絡みつかれたパウロの姿を見て、人々は「こいつは人殺しだ」と判断する。ところがパウロの様子に変化がないと今度は「神様だ」と言い出す。評価が正反対まで揺れ動くが、当のパウロは、それらの言葉に何も反応していない。反応せずに自分のできることをただひたすらに行っていく。歴戦のつわもの、大男のゴリアテを前にしてイスラエルの人々は縮みあがった。少年のダビデは、この男と戦えると申しでる。王のサウルは半ばあきらめ気味にこの少年ダビデを戦場へと送り出す。その際、王の武具をダビデに付けさせる。ところがダビデは、こんなものを付けていては重くて戦えないと全部脱ぎ捨て、普段、羊の番をしている時に持ち歩いている革の石投げ紐だけを携えてゴリアテの前に進んで行く。少年を送り込んできたイスラエルの姿勢に侮辱をされたと思い込んだゴリアテはダビデに襲いかかが、ダビデが石投げ紐から放った石粒一つで倒されてしまう。ダビデは日常と変わったことは何もしていない。主イエスは「あなたは地の塩、世の光」という。条件、努力を求めていない。何もしなくとも「塩」であり「光」だと言う。他者の言葉に振り回されないパウロ。自分に何も貼り付けなかったダビデ。本当の自分に気が付けと語る主イエス。自分でないものに支配されない、依存もしない、自分自身を生きる。「理」とは何か。本当の自分を生きること。本当の自分を生きるものはどうなるのか。使徒言行録の最後、パウロはユダヤ人たちに告げる。あなたたちは頑なだ。自分に貼り付いたものに気が付こうともせず、まして、それを脱ぎ捨てようともしない。この神の救いの言葉はこれから異邦人に語られる。私は異邦人の方へと行く。「理」とは行動であり、生き方。異邦人へ行く。ここだけ、ここが終点。その制限はない。どこにでも行ける。どこまででも行ける。自由。「理」を見出したもの。「自由」を生きる。 2026.09.24 04:05
9月13日 主日礼拝9月13日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 28章11~16節使徒言行録の著者ルカが読者に伝えたかったもの。パウロとは何者か。パウロは何と出会ったのか。パウロは「理」と出会った。世界のどこにいっても通用するもの。それをパウロはイエス・キリストを通して知った。ローマに到着したパウロを仲間たちが出迎える。私たちは少しばかり誤解をしているのかもしれない。パウロの伝道旅行。この伝道を通して教会が地中海周辺に誕生したと。聖書を普通に読めばパウロはダマスコ、アンテイオケア、ローマ、に出向いていくが、そこにはすでにキリストを信じる者たちがいる。パウロは教会の創設者ではない。ではパウロは一体何をしたのか。信仰者の群れ。それは昔も今も変わらない。ローマ帝国のキリスト教への迫害はおよそ300年続いたと考えられている。そこで犠牲になった人数は数千人と考えられている。1572年のサン・バルテルミの屠殺では、わずか24時間で数千から1万人以上のプロテスタントがカトリック教会によって殺害された。異教の者との争いより同じ教会同士の方がはるかに残虐になる。パウロの時代の教会も同様だったのではないか。イエス・キリストの言葉、行動、その解釈、これを巡って意見が飛び交い、時に仲間割れをし、傷つけ合うこともあったのではないか。パウロは何をしたのか。教会を作ったのではない。パウロが作ったものは教会のネットワークだ。争っている教会をどのようにしてネットワーク化したのか。パウロは「理」を語った。どこの教会でも通用するもの。どこの教会でも「ああ、なるほど」と言えるもの。それぞれの教会には「理」がある。それを否定することなく、その先にある「理」、「合理」をパウロは語った。パウロの「理」を聞いたもの、ネットワークに参加している。その者たちが、パウロのローマ到着を出迎えた。ここで記されている「出迎え」原語・ギリシャ語の世界ではあまり使用されない特殊な言葉が用いられている。皇帝や将軍の凱旋を迎える時に用いられる「出迎える」がここで使用されている。単なるお出迎えの時に使う言葉ではない。なぜルカは「凱旋」の出迎えを使ったのか。パウロのローマ到着。これで勝負はついた。使徒言行録が記された後、ローマ帝国からの弾圧もある。教会は苦境に立たされる。ルカはそんなことは百も承知している。それらを全て織り込み済みでルカは記す。パウロの見つけた「理」負けることはない。必ず勝つ。ルカの予言は今日まで間違っていない。2026.09.18 08:03
9月6日 主日礼拝9月6日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 28章1~10節座礁した船から無事に島に辿りつたパウロ。マルタ島での出来事を記した言葉。ここに「理」を見つけた者の生き方、「理」とは何かが記されている。漂着した島の人々の大切にされるパウロ。焚火の準備をしている時にマムシに絡まれる。その様子を見て島の住民は「神の裁き」を受けている、人殺しに違いないと思い込む。この者はやがていなくなる。「理」を見つけた者。間違った者、やがていなくなると皆から思われる。ダーウィン、ライプニッツ、アインシュタイン、誰からも受け入れられず、いずれいなくなると言われていた。蛇に絡まれたパウロであるが、いつまでたっても倒れる気配がない。進化論、二進法、相対性理論、なくならない。すると島の人々は今度は「神だ」と称賛する。喜ばしい出来事のようにも見える。だがパウロはここで喜んでいるのか。人々はパウロを称賛するが、パウロが望んでいたことはそんなことではない。「理」を分かって欲しかった。理を見つけた者、その者の周辺で起こること。否定をされる。その存在に誰も期待をしていない。それが一変して誤解の元に称賛をされる。理の周辺では上げたり下げたり、目まぐるしく色々なことが起こっている。では「理」を見つけたものは何をしているのか。パウロは困っている人を助けている。以前と何も変わらないことをしている。いつもと同じことをしている。周囲がどうであろうがパウロは変わらない。「理」ソーフロシュネー、変わらない、変わらないと意識をするのではない。変わらないと努力をするのでもない。知らないうちに結果、変わらない、でもない。意識をするでもない、しないでもない。同じを保つ。周囲に支配されることなく同じでい続ける。世界のスジ、「理」パウロは「理」を見つけただけではない。パウロの振る舞いはソーフロシュネー、「理」そのもの。「理」を生きた。永遠の命。不老不死ではない。変わらないを生きること。理を生きること。理を生きる。永遠の命を生きる。私はそのためにいる。2026.09.18 08:02
8月30日 主日礼拝8月30日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 27章39~44節パウロはなぜ世界宣教を志したのか。それは「理」を見つけたからではないか。イエスを通して、律法が本当に語ろうとしていた「理」それは世界中どこでも通用する。それをもってパウロは宣教へと赴く。「理」とは何か。それを伝えるためにルカ福音書があるのではないか。ルカの特徴。系図、イエスの振る舞い、ユダヤ民族という社会を超えて異邦人、世界への視野がある。境界線を超えていく。境界線とは人が設定したもの。その境界線を利用して、仲間意識、協力体制は強まるが、一方で争いも作り出す。境界線によって作られた協力は実はまやかしの関係にしかすぎない。本当の関係は境界線を超えるところにある。「理」とは境界線を越えること。ただ、この思想はギリシャ世界でもすでに課題にされていたこと。別段、新しいものではない。その上でキリスト教の新しさ、違いがある。キリスト教の個性。イエス・キリスト。受肉。神がこの世界を肉体を持って歩まれた。「境界線を超える」は思想、空想の話ではない。憧れ、理想でもない。この身体をもって実行すること。それは必ず実現する。十字架と復活。境界線を肉体をもって超えた。パウロを運ぶ船舶。座礁する。兵隊は囚人が脱走するのを恐れて全員を殺そうと考える。隊長はパウロを生かしておきたかったので、その計画を防止する。一人の存在が全員を救う。イエス・キリストについてパウロが言ったこと。一人の義が世界を救う。パウロのこれまでの言動、それが裁判では認められなくとも世界を救った。身体をもって行動したことが世界を変えていく。境界線を変えていく。身体がそれを実現していく。2026.08.31 03:32
8月23日 主日礼拝8月23日 主日礼拝 礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 27章13~38節「理」という表現を使って使徒言行録を読んできた。ユダヤ教の言葉、律法。ユダヤ社会では共同主観となっている言葉。だが、ローマでも、エジプトでも、この言葉は通用しない。イエスは律法を批判した、と当時のユダヤ人もパウロも思っていた。だが、イエスがしていたことは律法の構造になっている神は何をしても人を愛している、人の行いでその判断を変えるようなものが神ではないとの神の絶対性を説いていた。変わらぬものが神。一つの表現だが、パウロはイエスの中に律法を超える「理」を見つけた。これなら世界と戦える。否、世界に告げなくてはならない言葉と自分は出会った。「理」との出会いがパウロを世界宣教へと駆り立てる。「理」「神のみこころ」私たちもそれと出会ってるはず。教会の中で「これは神のみこころですから」と言って人に命令をするものがいる。これがみこころのはずがない。ならば、何を持って私たちは人の言葉と神のみこころを識別することができるのか。今日の聖書の物語。船が座礁する話。パウロは子の出航に反対する。だが、船主達は出航を選択する。案の定、船は嵐に見舞われ、人々は生きる望みさえ失う。パウロはそのもの達を励ます。私は皇帝に出頭をしなければならない、それが神のみこころだから、必ずこの船は陸地に到着する。船、人の思い。パウロ、神のみこころ。これらの特徴は何か。船、走り出しはするが、途中で止まり、消えてしまう。パウロ、神のみこころを携えるもの、どんなことがあっても止まらない。進み続ける。状況に支配されない。自由なもの。「理」とは何か。一つの「理」が見つかっても、それに限界が生じたら次に「理」がそれを補っていく。いつまでの続くもの、終わらないもの、それが「理」。イエスは「理」である。イエスは終わらない。十字架にかかり一度死んでも甦る。永遠の命。それは「理」のあり方。変わらないもの、止まらないもの、私たちはそれと出会っている。「理」を経験しているのであれば、「理」と共に行くしかない。「理」と共にいる。永遠を私たちは生きている。2026.08.24 07:57
8月16日 主日礼拝8月16日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 27章1~10節パウロがイエスを通して見つけたもの「理」と表現してきた。この世界の根底にあるもの。誰にでも、いつでも忘れてはならないもの。「理」「合理」「真理」教会の馴染みのある表現ならば「神のみ心」では、その「神のみ心」「理」と私たちはどのように出会い、それを持って生きるとはどういうことなのか。パウロのローマへの護送、船旅、この後の出てくる「嵐」ここからヨナの物語を連想することも聖書の読み方として的はずれではあるまい。ヨナも神の言葉、み心に出会った。その時、ヨナはどうしたか。断った。預言者たちも同じ。神の言葉、み心に出会った時、ためらい、拒絶をした。神のみ心、理、真理とは何か。私たちが拒絶をしようと思えば拒絶のできるもの。受け入れる、拒否をする。自由の関係にあるもの。神のみ心、理、真理の次の特徴。その神のみ心、真理と出会い、それを持って生きようとする。何が起こるか。周囲から拒絶をされる。間違っていると非難される。マリア、ヨセフ、彼らの決断は決して人に知られてはならなかったもの。人に知られれば、間違っていると排除された。民主主義が重んじている多数決は真理を見つけるための方法ではない。組織を健全化するための自己修正メカニズムに過ぎない。アインシュタインも、ダーウィンも多数決で世に残ったものではない。人々から拒絶をされる「神のみ心」「理」「真理」をなぜ私たちは大切にしなければならないのか。「神のみ心」「理」「真理」の三つ目の特徴。やがて誰もがそれを認めざるを得なくなる時が来るから。パウロの言葉は表面上は否定をしていた王や総督にも確かに伝わっていた。イエスの言葉は2000年間、語り伝えられている。神のみ心、理、真理、それと出会い、それと共に生きたものが自らの生涯のうちで世界にそれが許容される時を経験できないかもしれない。経験できない。それでもそれと共に生きる。受け入れなくてもいい。受け入れても周囲のものから理解をされない。それが日の目を見る時を目撃もできない。なぜ、神のみ心、理、真理と共に生きるのか。命あるものとして、一番おもしろい生き方だから。一番おもしろい。それを人に与えているものが神のみ心、理、真理。 表示を縮小2026.08.21 09:05
8月9日 主日礼拝8月9日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 26章24~32節パウロの伝道。なぜ彼は伝道をしたのか。「理」を見つけたからではないか。普遍的なもの誰にでも必要。だから伝えたい。「理」見えないスジを大切にすること。漢字からの意味。パウロ自ら総督に向かい「自分が伝えているのは理だ」と言っている。ここでの理ソーフロシュネーというギリシャ語ギリシャ世界は辞典より物語でその言葉の意味を落とし込む風習がある。プラトンの「饗宴」に登場するソクラテス。このソクラテスの弟子のアルキビアデス。この者がソクラテスを誘惑するが、これを相手を傷つけることなくソクラテスは退ける。その時、アルキビアデスはソクラテスにはソーフロシュネーがあると言っている。ここでの「理」とは立ち向かうでもなく、全てを引き受けるでもなく、するりと間を抜けていき、何事もなかったかのようにして、自分をブレさせない。穏やかな正気。この物語は聖書を読むものにも有益なもの。どうすれば私たちは「理」を得ること、それを実行することができるのか。聖書の中の同じく誘惑物語。主イエスの荒野の誘惑。悪魔の誘惑は、取引によって自分を世界の真ん中に置けというもの。これに対して、イエスは全てを退ける。ここで何故、イエスは悪魔の誘惑を退けることができたのか。ソクラテスはなぜ、アルキビアデスの誘惑を退けることができたのか。目の前のもの、誘惑をしてきているもの。それよりももっと大きな者があることに気がついたからでないのか。パウロは王、総督、これらの世の権力者達を恐れない。もっと大きな方を知っているから。ソクラテスはアルキビアデスの誘惑を退ける。捨ててはならないもっと大きなものを知っているから。イエスが律法主義者を批判する。律法を守れば神に喜んでもらえる。破れば神から叱られる。だから律法を守ろう。イエスはこれに怒る。神が人の取引に乗るような小さい方だと思っているのか。私たちが何をしようが変わらない。そういう大きさ、人が把握しようとしても把握できない大きな方。それを表すがために時に律法を軽んじる言動をとる。それを誤解していたパウロではあったがやがて気がついた。これが「理」だ。故にイエスを宣べ伝えた。裁判の席、イエスの話をパウロから聞いた二人の権力者。皇帝と王。二人はパウロの言葉を遮って法廷を退出する。パウロの言葉は肯定されることはなかった。ただ席を離れてから二人は確認した。「あの男は何も間違っていない」「理」は伝わっている。イエスは「理」だった。2026.08.10 09:08
8月2日 主日礼拝8月2日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 26章19~23節パウロにとってイエス・キリストとは何だったのか。なぜパウロは宣教をしたのか。同胞のものにも、異邦人にもなぜイエスを宣べ伝えたのか。「理」という漢字がある。二つの部署から成り立っている。「王へん」この意味は「磨く」「整える」石を磨き玉にする。「里」分ける、境界線、表面には見えない木目、筋の意味を持つもの。「王へん」と「里」がくっつく。スジを磨いていく、スジを整えていく。物のスジを整えるものを「物理」という。心のスジを探ることを「心理」という。思考にあるスジを見つけることを「論理」。「理」はそれぞれの分野ごとに存在している。異なる「理」が共存している。「理」がぶつかる。争いになる。今日は平和主日。平和とは何か。戦争がない状態、これも確かに平和。だが、それだけではあるまい。「自分の守りたいもの、大切にしたいもの、それをちゃんと維持できる状態を平和という」との言葉を聞いた。「理」がぶつかれば争いになる。ぶつかっている「理」と「理」の先に重なり合う「理」がある。これを「合理」という。誰もが従える、合わせられる「理」。合理。または真理という。パウロは誰にでもイエスを伝えた。パウロにとってイエスとは何だったのか。「合理」だったのではないか。どこにでも誰にでも通用する。それがイエスという「理」。悔い改める。勇気を持って自分を振り返ること。復活を信じる。世界は終わり、別れが、絶対のものではない。終わらない、続くところ。誰もが「良い」と確信を持てるところ。自分を受け入れ、この先を信じる。そういう「理」を教会は「真理」とした。2026.08.10 09:08
7月19日 主日礼拝7月19日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 26章12~17節パウロ、イエス、同胞のものから訴えられる。ユダヤ教。パウロも、イエスもこの教えの中で生きていた。これを尊重していた。にも関わらず訴えられた。「本気になった」から。本気でユダヤ教の解釈、神の心を求め希望持ったから。本気になられては困る。バランスよく保たれていたもの。蓋をしてきたもの。それが全部、崩れてしまう。パウロ、イエス、このものたちの言っていたことが正しいのは当時のユダヤ人も皆知っていた。知ってたが故に、イエスや、パウロの存在が邪魔だった。いてもらっては困る。本気になってもらっては困る。パウロはおそらく生涯変わらず同じ気質を持っていたものと思われる。教会を真剣に迫害する。その後はイエスの教えを宣べ伝える。新約聖書の半分にのぼる文書を記した。パウロは本気で生きるもの。そのパウロがなぜイエスを迫害していたのか。その理由が記されているのが、ダマスコ途上のパウロの経験。ダマスコでイエスに従うものを捕らえようと旅をしていたパウロ。そのパウロが強い光に覆われて目が見えなくなる。その光の中でイエスの言葉を聞く。その後、パウロは教会の伝道者として生涯を送る。パウロの回心と呼ばれる物語。ここで何が起こったのか。パウロはなぜ、教会を迫害するものから伝道をするものに変わったのか。情報がなかった。それがその原因。ダマスコの途上でイエスの言葉を聞く。パウロは初めてイエスをちゃんと見た。正確な情報を得た。あなたの敵を愛せとイエスは言う。誰もかれもと仲良くしろという勧めではない。「敵だ」と思ったらちゃんと見なくなる。否、そもそもちゃんと見ないから「敵だ」と思い込んでいるのではないか。ちゃんと見なさい。正解な情報を得る。世界をちゃんと見る。それができれば本気になれる。イエス、パウロ、本気で生きた。世界をちゃんと見たから。今14億人の信者を生み出す2000年続いた共同体になった。世界をちゃんと見て、本気になる。イエス、パウロの物語ではない。あなたの、私の、すべてのものの物語。世界をちゃんと見れば私の物語が始まる。2026.07.24 06:28
7月12日 主日礼拝7月12日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 26章1~11節回心をしたパウロパウロは何が変わり、何が変わっていないのか。裁判で弁明をするパウロ。これまでの生い立ちを語る。そのどこもがパウロを訴えているユダヤ人たちの批判にあたるものではない。パウロもユダヤ人たちと同じ共同体に属するもの。共同体の模範となるような働きをしているのがパウロ。そのパウロがどうして訴えられるのか。弁明の中でパウロはその理由について語る。「神の約束に望みをかけている」「復活を信じている」これは本来ならば、共同体全員が持っているはずのもの。おそらく表現、言葉としては「約束を信じる」「復活を信じる」は共同体内で用いられていた。同じ思いを持っているはずなのに、どうして訴えられる原因になったのか。実際、共同体の者たちは裁判に耐えうるだけの証拠、証言をそろえられていない。出来事を問題にしているのではない。出来事が問題ならば有効な「証拠」「証言」を提示できる。それがそろわないのはユダヤ人も分かっている。それでもパウロを裁きたい。亡き者にしたい。その理由は何か。ユダヤ人たちのパウロについての思い。「本気になってもらっては困る」教会に95の質問状を送ったルターまっとうな質問。そのルターがどうして教会に拒絶されたのか。「本気になってもらっては困る」パウロの共同体、ここまで共同体はうまく回っている。大きな争いもなく、運営もうまくいっているし、人々からの評判も良い。少しの問題はあったとしても、この状態を維持することがみんなの幸せに通じる。それが復活が本当ににあったのだの、イエスが証拠だの、復活は希望の対象であって実際にあったかなかったかなどはどうでもいい。これまでのバランスが崩れるようなことはやめてくれ。「本気になってもらっては困る」パウロは何が変わり、何が変わらないのか。教会を迫害するパウロ。徹底的に迫害する。共同体の信仰を探究していく。イエスが言っていることが自分たちの信仰に合致する。それを徹底する。パウロは実は何も変わっていない。本気でやっているだけ。ユダヤ共同体はローマ帝国に飲み込まれる。キリスト教はローマ帝国を飲み込んで行った。本気になれるものそういうものとの出会いが世界に残っていく。2026.07.24 06:26
7月5日 主日礼拝7月5日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 25章13~27節聖書の世界は自由主義か共同体主義か。イエス、パウロ、どちらも「裁判」を経験する。裁判を通して生まれた教会。裁判を通して教会はどのような爪痕を残したのか。閉鎖された世界での独り言ではない、公の場での言葉が求められる裁判。パウロはユダヤの裁判からローマ帝国の裁判へと進んで行った。より多くのものへ、より広い世界で教会の言葉は注目をされた。教会が裁判を通して世界に残した爪痕、宣伝効果。もう一つの爪痕。イエスの裁判も、パウの裁判も裁判長・帝国の総督が無罪の判決を出してもそれが実行されない。イエス、パウロ、彼らは主体の言葉、考えを大切にする。自由主義の者とも考えられる。だが、彼らは裁判へと赴く。パウロの至っては自ら進んで裁判の場を求めている。秩序、法を重んじている。共同体を大切にしている。共同体主義でもある。律法が大事だ、秩序、民族性が大切だと言っているユダヤ人たち。この者たちは共同体主義の者のような発言をする。だが、採決には従わない。共同体の柱である裁判を彼らは拒絶する。イエス、パウロに代表される教会は共同体を軽んじる者ではない。そして、彼らは共同体に大きな課題があることも突きつけた。裁判が成立しないものがある。共同体が壊れる時がある。神の言葉。これは共同体・人の製作物では追いつけない。人は誰しも神からの使命・賜物を持っている。個性、性質、傾向。それが本当に神からのものであれば、時に共同体に収まらない。共同体を壊すものとも非難される。イエス、パウロも同じ。秩序を壊すものと拒絶された。だが、その結果、次の秩序、新しい共同体を生み出して行った。自由と共同体。これを連続させてきたのが教会の歴史。そこにはいつでも神という高い次元への意識があった。自由と共同体が二者択一になる現実があるのなら、そこには「神」はいない。心を高くあげる。この地平での衝突が些細なことに見えてくる。2026.07.22 07:16
6月28日 主日礼拝6月28日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師宗教はオワコンなのか?人類至上主義神を必要としない世界。理性至上主義の末に人が生み出したものAI。欲しかったものはこれなのに、これに自らの存在が脅かされている。本当は私たちは何がしたかったのか?なにを考えていればよかったのか?この時代への問いかけに、宗教はけっこう素材がありますよという思いを持っての礼拝のお話し使徒言行録25章1−12節ユダヤ人はなぜパウロを憎むのか。律法を大切にするユダヤ人。律法、秩序、これをなぜ重んじるのか。組織、共同体を守るため。ユダヤ人たち、彼らは共同体主義のもの。一方のパウロ自分の信じるもの、主体を大事にする。「私」「主体」「個」それぞれの在り方が許される環境。自由な環境。それ故、自由主義とも呼ばれる。ただ共同体主義のユダヤ人たち。彼らはパウロに下される無罪の決定、これを許さない。共同体を維持する根幹の「法」を彼らは守ろうとしない。ユダヤ人が守ろうとしているものは本当は何なのか。パウロ、イエス、この者たちは自由主義なのか。人は安息日のためにあるのではない。安息日が人のためにある。既存の律法を無視するかのような自由主義的発言。ただ、イエスが見ていたものは、自分の主張ではない。神を見ていた。神の御心は何か。それを常に捉えようとしていた。共同体を大切にしているかのようなユダヤ人。彼らは法を守らない。彼らの中にあるのか結局は前例や、誰かの言葉。自分で吟味したことのないただ反復されるだけのもの。ファジーな全体主義。イエス、パウロ、彼らは吟味する。問う、神の御心がなんであるのか、徹底的に問う共同体主義と自由主義の衝突。20世紀に顕著になったもの。どちらも原因は同じ。理性の台頭、人が世界の中心になった。すなはち神が不在になった。神へと常に思いを馳せる。中心は私ではない。権力のあるあの人でもない。神を中心に据える。そこには常にあのイエスの最初の言葉がつながってくる。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」自分を疑う、自分を真ん中にしない、悔い改め。それは人がぶつかり合うだけの現実と称される世界を別のところへと押し上げる。神の国自由か、共同体か。それがぶつかり合う地平からその先へと私たちをいざなっていく。2026.07.22 07:15