本多記念教会

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変えられていく

2018年11月11日伊藤大輔牧師使徒言行録15章22-35節 聖書は2000年間、読まれ続けた書物。今日読んだ箇所は使徒たちが会議を開いた場面。読みようによっては単なる会議録。ただ会議録ならば周囲の者たちが保存、時期を見て確認すれば良いもの。それが2000年、読まれ続ける。そこには会議を超えた何かが記されている。今日の私たちにも必要な何か。それを見つけることが聖書を読むということ。何が語られているのか。読み解いていきたい。会議はある衝突を契機に開かれた。主イエスはユダヤ社会の方。ユダヤ人と直面し、ユダヤ人によって十字架にかけられた。主イエスの舞台はユダヤ社会だと思われていた。ある時、ペテロに異邦人へ主イエスの言葉を伝える機会が与えられた。何も期待していなかったペテロであったが、それを聞いた異邦人が主イエスを信じると言い始める。主イエスの舞台はユダヤ社会ではなかった。もっと広く、もっと大きい。当のペテロでさえ戸惑った出来事。これを知らない者たちは「異邦人を受け入れる」などとんでもないと反対をする。ユダヤ社会に風習をきちんと踏襲するという条件を満たしてからでないと信用しないと語る。もっともな意見。これと同様、使徒言行録の最初の読者にも異邦人への拒絶感は強いものであったと思われる。聖書が成立したのは戦争の時代、しかも敗北の時。異邦人は憎むべき相手。それを受け入れるなど言語道断。聖書成立の時代も、物語の舞台の時代も教会の思いは同じ。そこで会議が開かれる。会議は衝突によって始まる。この会議の後、パウロとバルナバは衝突をする。聖書は知っている。人は、社会は衝突をすると。衝突の間で開かれた会議はどのようなものであったのか。異邦人へ会議の決議を告げる言葉が記されている。「満場一致で」。多数決ではない。衝突していたものが一つになっている。同じ想い、愛し合って決めた。そもそも主イエスが伝えてくれたこと。それは何かの功績、原因によって、神から愛されるではない。神は何があろうと人を愛する。ならば何故、我々は異邦人に条件づけをするのか。愛は条件など必要としない。そういう愛を喜んできたのではないのか。教会の中で衝突があった。それは私たちも同じ。教会のならずいたるところで我々は衝突を経験する。衝突。その中で教会が、人が、世界が一歩前進する時がある。誰かが戦いに勝利した時ではない。愛する時、愛し合う時、世界は動き出す。敗戦の中で教会が見つけた言葉。世界の底で世界を支えているもの。勝負ではない。愛2000年間、私たちが信じてきたことそしてこれからも変わらない真実 

どこまでも広がる

2018年11月4日伊藤大輔牧師使徒言行録15章1-11節本日は召天者記念礼拝。先に召された信仰の先達を覚える日。その信仰とはいったいどのようなものなのか。教会の信仰を、この記念の日に確認したいと思います。 そのために教会の歴史を振り返ります。「旧約聖書、ユダヤ教」「新約聖書、キリスト教」この二つの聖書、二つの宗教はある時をきっかけにまとめられ整えられていきました。今から2500年前、旧約聖書、ユダヤ教はまとまります。2000年前、新約聖書、キリスト教はまとまります。2500年前、2000年前、500年の開きはありますが、どちらも同じ状況を経験します。戦争、敗戦。2500年前はバビロニア帝国と戦い敗れます。2000年目はローマ帝国と戦い敗北します。敗戦。信じていたものに裏切られる体験です。土台が、底が崩れ去る体験です。私たち311の時、誰しもがつぶやきました。「神などいない」そのつぶやきは2011年が最初ではありません。イスラエルは2500年前、2000年前、叫びました。「神などいない」その状況で生まれたものが「聖書」「ユダヤ、キリスト教」です。 本日の聖書に記されているのは使徒たちが開いた会議の様子です。ただこれも記された年代、最初の読者は敗戦を経験した者たちだったと考えられます。敗戦を経験した者はここをどのように読んだのか。それが、教会の信仰とかかわるところです。 異邦人が信仰を持った。それを喜ぶのがペテロ、パウロ達使徒です。ところがファリサイ派の人々は「異邦人が私たちの割礼を 受けなければ認められない」と言います。両者はぶつかります。最初の読者にとって異邦人とは誰だったのか。彼らが真っ先に連想する異邦人、それはローマ人であったはずです。敵です。愛する国土を破壊し、家族の命を奪い去ったもの、それが異邦人、ローマ人です。ファリサイ派の主張、「価値観を共有するものでなければ信用できない」これは至極まっとうな常識的見解です。これに対し非常識なのは使徒たちの方です。敵を受け入れる。そのままで受け入れる。なぜ使徒たちは非常識な選択するのか。神がそうしたからです。神が受け入れている。神がしている。だから私も受け入れる。 無意味な体験拒絶をしたい出来事絶望しか見えないものであってもそこに神がいる。神が働き、神が語りかけ、私の決断を待っている。信仰とは何か。神がいる。どんな時にも、どんなところにも。闇の中で光を信じる。先達が守った信仰です。教会が守り続けてきた信仰です。

遠のいていく

2018年10月28日   伊藤大輔牧師創世記29章14-30節 ヤコブの物語。始めの読者はこれをどのように読んだのか。始めの読者はイスラエルの民。ヤコブは後に「イスラエル」と言われる。読者はヤコブと自分を重ねたはず。ヤコブの物語は私の物語。 そのヤコブは決して立派なものではない。母親に唆されたとは言え、家族を騙そうとしたもの。社会の信頼の基盤である家族、それを彼は壊した。家を追われ叔父ラバンを頼り、ヤコブは旅立つ。ラバンの娘ラケルと出会うと、周囲のものを無視して彼女との関係を築こうとする。また、ラバンの家に身を寄せている時も、見えないところが美しいレアよりも、容姿のきれいなラケルとの結婚を望む。 イスラエル。人々の尊敬を集めるものではない。軽率な、傲慢なもの。「それがイスラエルだ」「それが私だ」と聖書は語る。 そのヤコブがラケルとの結婚に際してラバンから約束を覆される。ラケルとの結婚を望んでいたにも関わらずレアとの結婚を強いられる。目的地にたどり着いたと思ったのにそれが遠のいていく。失望絶望。 人の目にはこれは絶望と映る。しかし、それが真実なのか。ヤコブが結婚に際して与えられたのは二人の姉妹と共にそれぞれの女奴隷。この四人とヤコブは関係を持ち子どもをつくる。それがイスラエル十二部族となる。ヤコブは想定と違うことばかりを体験する。叔父のラバンは変わる。何度も約束を勝手に変更する。人は変わる変えてしまう。 家を追われ、ラバンの街に辿り着く前、ヤコブは神の言葉 を聞く。「必ずあなたを連れ帰る。あなたに約束したことを果たすまで私はあなたを見捨てない」。神は変わらない。 叔父ラバンの約束の反故。不愉快で、想定外のこと。だが、これがあったから十二部族が生まれた。人にはつらいことでも、裏切られたことでも、神は確かな礎を据えている。人がどんなに予定を変更しても、豹変しても、神の予定に狂いは生じない。 ヤコブの物語は私の物語。私には分からなくとも、私には受け入れがたい現実であろうとも、神はそこで確かな礎、準備をしている。この先に誰も知らない、神だけがご存知の未来がある。今日の私が無駄でない、今の私とつながっている未来がある。この先に私の喜びがある。

命のパスワード

2018年10月21日  森下 滋伝道師ヨハネによる福音書8章31節ー32節コロサイの信徒への手紙1章24節ー29節「真理はあなたたちを自由にする。」このヨハネ福音書の聖句がソウルの延世大学の入り口正面に石碑になっている。ラテン語で刻まれる事が多いがここでは韓国語で刻まれている。毎日ここを通り過ぎる学生がこの事を見て知る事が設立者の宣教師の願いであろう。あなたには墓場まで持って行きたい秘密はあるか?それは何か?解脱を売りにしたカルト宗教の教祖は実は死を恐れていた。そして死刑に処された。一番隠したい事。しかしそこから逃れる事は出来なかった。パウロは言う。「苦しむ事を喜ぶ」のだ。これはあなた方の為であり、キリストの苦しみが私たちに欠けているのを補給するためなのだと。私たちの補給所はキリストの体である教会である。そしてパウロは補給所に仕える者となった。こうして秘められた計画が明らかになった。27節を直訳すると「神は自らを知られる事を求めた」となる。それは栄光の希望であるキリストが私たちの内にいる。この事が明らかにされた神の計画である。パウロはこの事を宣教し諭す。終末に向けての備えが私たちには必要である。私たちはキリストの血により罪を赦されたが完全な者では無い。救われているがこの世の真ん中において完全では無い。だから常にキリストに結ばれていなくてはならない。キリストは私たちの内に今生きている。パウロの苦しみはキリストの苦しみ。パウロの喜びはキリストの喜び。私たちの喜びはキリストの喜び、そして神の神秘の計画。私たちは隠したいものがある。何かに対して恐怖を持つ。生きていてバランスを取れなくなる時自ら死を選ぶ。一橋大学でLGBTをカミングアウトした学生はその事を不特定多数にバラされて、絶望の中で死を選んだ。私たちの秘密は明らかにしても墓場まで持って行っても実際にどう作用するのかは当事者には分からない。しかし神は私たちに自らを知られる事を望んだ。手の内を見せた。私たちの秘密と恐怖は、神の国においては無効である。神の国に入るための命のパスワード、あなたは知っているか。

苦難と恵

2018年10月14日伊藤大輔牧師 使徒言行録14章21―28節旧約聖書、新約聖書、成立の年代は異なるが、共通の社会的状況のもとでまとめられた書物。帝国との戦争、敗戦。夢も希望も見えない、未来が閉ざされた闇の中でまとめられたのが聖書の一つの背景。その現実の中で人はどのように進むのか、進められるのか。パウロたち、使徒の歩みと重ねて、聖書は世界の進み方を語っていく。
 パウロたちは異邦人世界という未知なる世界へと歩み始める。ユダヤ社会からは闇と思われていた所。そこでパウロは異邦人が信仰を持つ有様を目にする。パウロはどのように伝道をしていったのか。闇と思えた世界で希望を見出したのか。 パウロの言葉に「異邦人教会で長老を任命し彼らに任せた」との言葉がある。キリスト教については未熟な者たち、この者たちに任せるとはどういうことか。それはパウロの現実認識と結びついているものと思われる。 パウロは教会に対して語る。「私たちは多くの苦しみを経なければならない」と。パウロは苦しみは避けられない、仕方ないと言う。それが彼の信仰、現実認識。この直前リストラの人々が持った信仰は、奇跡を見たから、すなわち、良いことがあったから信じるというもの。いつの時代も、これを信仰とする考えはあるがパウロはこれを否定する。極端な表現を用いるなら神は苦しみを与える。聖書の登場人物は楽をしていない、神に愛されれば愛されるほど苦しんでいる。なぜか。 人は予定調和に固執する。頭で作った「成功」「幸せ」「正義」それに固執する。人の頭、それが果たして本当のものを把握していうるのか。作りものを真実と勘違いしているだけではないか。人の予定調和を壊す。苦難は壊してくれる。「キリストは神の身分に固執していない」と古代の讃歌は告げている。神がご自分を壊し外に出ている。それが世界の作り方。だから私の予定も崩れる、苦難にあう。パウロは教会を異邦人に任せる。自らの方法に固執していないから任せることがができる。 夢も希望もない現実。それは神なき世界ではない。神の備えが実現している世界。私の思いの先に、想像もできない広々としたまことの世界が広がっている。 

偶像を作らない

2018年10月7日伊藤大輔牧師使徒言行録14章8―20節本日の聖書の箇所、最初に足の不自由な者が立ち上がる出来事が記され、最後は石を投げつけられ倒れたパウロが起き上がる場面となっている。最初と最後、「立ち上がる」で囲んでいる。人は誰でもつまずき倒れる。立ち上がれるのか。立ち上がれるとしたら、どのようにしてか。今日の聖書はそのことを語る。足の不自由な者。パウロはこの者に「信仰」があるのを認め「立ち上がれ」と声をかけ、立たせる。投石で倒れたパウロにも信仰はある。立ち上がる要素、信仰だと、聖書は語る。ならば「信仰」とは何か。 パウロの奇跡を見たリストラの人々はパウロたちを「神だ」と賞賛する。この者たちも神を認めている。「信仰がある」と本人たちは自覚をしているであろう。ところが聖書はこういうものを「信仰」とは考えていない。 パウロが記した「ガラテアの信徒への手紙」。その中でパウロは自らの信仰は人から受けたものではなく、神からいただいたものだと何度も語る。家族からの影響、友人からの勧め、牧師からの教育等、人からのものだけなら信仰にはなっていないと言うことであろう。まことの信仰とは何か。リストラの人々はパウロに感動したが、その後にやってきたユダヤ人たちに扇動され今度はパウロの迫害に手を貸す。彼らの「信仰」と称されるものが「まこと」と呼ぶには相応しくないものであることは分かる。では、彼らの問題はどこにあったのか。彼らはパウロに驚く。リストラの人々は、パウロは「特別だ」と思った。特別自分にないものも持っている。それは自分は不足があるという自己理解から導き出される感覚。自分は不十分。そう思えば、特別と感じるものになびく。人に追随することを信仰と思い込む。パウロはリストラの人々に自分たちはあなたたちと何も変わらない普通の人間だと語る。また、神についても神は雨を降らせ穀物を豊に与え人を守っていると語る。普通日常特別を語ったりしない。日常の至る所に神はいる。神が特別なら全部が特別。あなたも、わたしもみんな特別。神に十分に恵まれているもの。何も不足はない。それは贅沢を望まず質素に生きろとの勧めではない。この小さい脳で思いつくことは全部、出来る。まことの信仰。不足が補われることを期待するものではない。足りなかったものが獲得できたことを喜ぶことでもない。すべては備えられている全部ある安心し心、整えること。信じるその信仰が人を何度でも立ち上がらせる。わたしは立ち上がれる。

分裂からの始まり

2018年9月30日 伊藤大輔牧師
            使徒言行録14章1-7節
 使徒言行録を記したルカ。「福音書」とともに教会の出来事を記す。ルカは歴史を記す。歴史が大切と思うから。慰めがあると思うから。福音があると思うから。ルカは歴史を通して何を語るのか。「福音書」「使徒言行録」。ルカは時間を振り返ってこれらを記す。ここには記されているもの。仲間が殺された。主イエスを証しして命を落としていった。主イエスのせいで死んでいった者たちがいた。神様を信じているのに、どうして私たちに幸せは訪れないのか。
 使徒言行録は主イエスの弟子たちへの勧めから始まる。「地の果てまで私の証人となる」。この言葉によって使徒たちは宣教へ赴き迫害される。主イエスを証しして何かいいことがあるのか。何もない。   使徒言行録は使徒たちが語る「説教」が四分の一を占めている。その説教はイスラエルの過去語る。歴史を語る。その歴史は輝かしいものではない。失敗の歴史。罪の歴史。苦難お歴史。ルカの歴史観がここにある。
 イスラエルは神に選ばれたもの。祝福された民。その民は苦難に遭う。それが歴史だと、事実だとルカは言う。神に選ばれたもの、神に祝福されたもの、そのものは苦難に遭う。祝福されたものは平穏のうちに過ごせる、とは人が勝手に設えた予定。歴史の中でそんなことは起こっていない。神の祝福に与ったものは苦しんでいる。だからルカは苦しんだ者たちの姿を記す。彼らは祝福されているから。歴史の中で働く神は予定調和の神ではない。私たちに悔い改めを求める神。神の恵みは人の予定を超えている。時にそれは苦難として感じられる。それは不幸ではない。神は人を鍛えている。人の思いを壊しながら真の世界を示していく。永遠の命。人の経験では納得できないもの。苦難もまた人の感覚では納得しがたいもの。だから信仰が求められる。苦難を拒否するは人の感覚。だがそこで神を尋ねられるか。イサクを屠る時のアブラハムのように、十字架で神に問う主イエスのように、神を求められるか。闇の中で神を求める。神は私たちを鍛えている。愛ゆえに。 

新しい出発

2018年9月23日 伊藤大輔牧師創世記29章1-14節 族長物語はイスラエルの祖先の話。それは表面上のこと。その内容は一民族の話ではない。いつでも、どこでも成り立つ普遍的物語。物語は私と結びついている。私とはなにか。人とは何か。人はどのような道を歩むのか。 族長物語はアブラハム、イサク、ヤコブ、三代の物語。この三代には共通しているものがある。神様から祝福を受けたもの。祝福を受けているのだから、さぞかし素晴らしく、幸福な人生を歩んだことと想像する。祝福されたものは幸せが保障されている。それは私たちにも通じる。神様を信じていれば幸せになれる。祝福された者たちはどのような人生を歩んだのか。アブラハムは生まれ故郷を離れて異国の地に居住させられる。歳をとってからやっと与えられた子供のイサクは神のために捧げろと命じられる。イサクもまた歳をとってから産まれた双子のエサウとヤコブが争い家族がバラバラになる。バラバラの原因となったヤコブも元々は母親の提案に従っただけ。皆、どうしてこんな目にあうのか釈然としない人生を歩んでいる。 兄の憎しみを買いやっとの思いで母親の実家にたどり着くヤコブ。井戸で従姉妹のラケルと出会う。かつて母のリベカが、父イサクと結ばれるきっかけになった井戸。同じような出会いをする。新しい道が開けそうな予感が漂う場面。しかし、その直後には叔父によって不当な労働を強いられる。祝福されたものなのにどうして次から次に苦難を経験するのか。その理由は私たちの設定が間違っているから。神は人に私たちの期待する予定調和は与えるようなこじんまりとした神ではない。 ヤコブはこの後、神と格闘して「イスラエル」との名前をいただく。「神、戦う」との意。神に祝福されたもの。その者は神と戦う。十字架上のイエスも神に問いかけ息をひきとる。戦う姿で終えている。 人はどのような歩みをなすものか。神と戦うことが求められている。人の予定の中に「未来」があるのではない。神と格闘しながら、そうしなければ見えない未来がある。格闘した族長は世の礎となった。格闘できること、それが祝福。神が備えている豊かな未来。この格闘の先にある。 

枯れない木

2018年9月16日森下滋伝道師詩篇1編1-6節神に逆らう者の道は滅びに至る。この言葉は私達の信仰の中心であるが、日常的に罪の中にいる私達には恐怖の言葉でもある。旧約聖書が語る神は私達を祝福するが罪を裁く神である。詩編全体の構成は1編1節の「いかに幸いな事か」という祝福から始まり、150編6節の「ハレルヤ」という神賛美で閉じられる。祝福された者はいかなる歩みの中でも神賛美に至るという事が詩編全体の主題である。この構造は1編にも反映されている。  祝福された者は自らの意思をもって悪に加わらなかった。この意志は神が与えて下さった。そして彼は主の教えを愛し、獅子が喉をグルグル鳴らすように、いつもそれを口ずさむ。これもまた主が与えて下さった自由な意思である。3節で彼は一本の木として描かれている。この木はわざわざ誰かにより水路のほとりに移植されたのである。良い水を得て時が来ると実を結び決して枯れない木。誰が何のためにこの木を移植したのか。  神が神の息を送ると神に逆らう者は籾殻のように無力にされる。神に反逆しようにも神の前に立つ力が取り去られてしまう。そして裁きに耐えられない。神に従う者の集いにも耐えられない。しかし神を知る者の道は神が守られる。誰がこの木を移植したのか。以前はどこにあったのか。それは神に逆らう者の集いの中に生えていた。罪ある者の道の真ん中に、傲慢な者と共に座る座に生えていた。主イエスは十字架で自らの血を流しそして復活して私達の罪をすべて赦して下さった。彼が自分の命と引き換えに私達を悪のただ中から根こそぎ引っこ抜いて下さった。それ故に私達はもはや罪の只中に戻る事はない。しかし、「十字架の言葉は滅んでゆく者には愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(ガラ1:18)とあるように、自分を神より高ぶらせる者にはこの十字架の言葉は理解出来ないのである。死から生へ、祝福から神賛美へと至る神の働きはこの世の原理とは真反対に作用する。これを信じる事が全ての出発点である。主の教えを愛し口ずさむ者はいつまでも枯れない木とされるのである。

相転移

2018年9月9日使徒言行録13章33-52節  使徒パウロが回心してから始めての説教をする。自分が大切にしていること。皆に分かってほしいこと。主イエスの復活は私たちの罪の赦しを表している。「罪の赦し」とは何か。「罪」には二つある。私が犯した「罪」。人から私が被った「罪」。 私が犯した「罪」。公になってしまったら「後悔」という心の動きになる。どうしてあんなことをしたのか。どうしたら信用を回復できるか。 まだ知られていない「罪」。それをどうしたら隠し通せるか「不安」「心配」が心を覆う。 人から被った「罪」。私が正しいと自覚すればするほど「怒り」がこみ上げる。私は正しい。あの者はそれに気付きもしないで人を蔑ろにする。 「後悔」「心配」「不安」「怒り」。罪の周辺で発生する心の動き。ここには同じ働きがある。罪の周辺をウロウロして罪から離れられず、答えの見えないものを何度も何度も繰り返す。主イエスは十字架に架けられた。無理解なものたちから「罪」を被った。父なる神は怒ってよかった。怒っていつまでも「罪」の周りで人々を呪ってもよかった。心が止まって凍り付いてもおかしくなかった。「罪」の周りでは心が止まる。止まって動かなくなる。罪の周りでは心が死んでしまう。主イエスは罪のゆえに墓に葬られた。だが、三日目に墓から出てきた。止まっていない。固まっていない。 神は止まらない。罪に覆われても止まらない。罪の支配から放たれてくる。それを「赦し」という。私は「赦される」「赦せる」。だがそれを信じられないユダヤの民は怒ってパウロを殺そうと企てる。心が固まり「赦し」が信じられない。「赦し」が世界にある。それを信じる者に敵はいない。パウロ達は異邦人のところに行くと宣言する。「赦し」がある。ならば人の心は止まらない。動き出し、希望へと進んで行ける。心の本当の在り方を思い出したい。