7月19日 主日礼拝7月19日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 26章12~17節パウロ、イエス、同胞のものから訴えられる。ユダヤ教。パウロも、イエスもこの教えの中で生きていた。これを尊重していた。にも関わらず訴えられた。「本気になった」から。本気でユダヤ教の解釈、神の心を求め希望持ったから。本気になられては困る。バランスよく保たれていたもの。蓋をしてきたもの。それが全部、崩れてしまう。パウロ、イエス、このものたちの言っていたことが正しいのは当時のユダヤ人も皆知っていた。知ってたが故に、イエスや、パウロの存在が邪魔だった。いてもらっては困る。本気になってもらっては困る。パウロはおそらく生涯変わらず同じ気質を持っていたものと思われる。教会を真剣に迫害する。その後はイエスの教えを宣べ伝える。新約聖書の半分にのぼる文書を記した。パウロは本気で生きるもの。そのパウロがなぜイエスを迫害していたのか。その理由が記されているのが、ダマスコ途上のパウロの経験。ダマスコでイエスに従うものを捕らえようと旅をしていたパウロ。そのパウロが強い光に覆われて目が見えなくなる。その光の中でイエスの言葉を聞く。その後、パウロは教会の伝道者として生涯を送る。パウロの回心と呼ばれる物語。ここで何が起こったのか。パウロはなぜ、教会を迫害するものから伝道をするものに変わったのか。情報がなかった。それがその原因。ダマスコの途上でイエスの言葉を聞く。パウロは初めてイエスをちゃんと見た。正確な情報を得た。あなたの敵を愛せとイエスは言う。誰もかれもと仲良くしろという勧めではない。「敵だ」と思ったらちゃんと見なくなる。否、そもそもちゃんと見ないから「敵だ」と思い込んでいるのではないか。ちゃんと見なさい。正解な情報を得る。世界をちゃんと見る。それができれば本気になれる。イエス、パウロ、本気で生きた。世界をちゃんと見たから。今14億人の信者を生み出す2000年続いた共同体になった。世界をちゃんと見て、本気になる。イエス、パウロの物語ではない。あなたの、私の、すべてのものの物語。世界をちゃんと見れば私の物語が始まる。2026.07.24 06:28
7月12日 主日礼拝7月12日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 26章1~11節回心をしたパウロパウロは何が変わり、何が変わっていないのか。裁判で弁明をするパウロ。これまでの生い立ちを語る。そのどこもがパウロを訴えているユダヤ人たちの批判にあたるものではない。パウロもユダヤ人たちと同じ共同体に属するもの。共同体の模範となるような働きをしているのがパウロ。そのパウロがどうして訴えられるのか。弁明の中でパウロはその理由について語る。「神の約束に望みをかけている」「復活を信じている」これは本来ならば、共同体全員が持っているはずのもの。おそらく表現、言葉としては「約束を信じる」「復活を信じる」は共同体内で用いられていた。同じ思いを持っているはずなのに、どうして訴えられる原因になったのか。実際、共同体の者たちは裁判に耐えうるだけの証拠、証言をそろえられていない。出来事を問題にしているのではない。出来事が問題ならば有効な「証拠」「証言」を提示できる。それがそろわないのはユダヤ人も分かっている。それでもパウロを裁きたい。亡き者にしたい。その理由は何か。ユダヤ人たちのパウロについての思い。「本気になってもらっては困る」教会に95の質問状を送ったルターまっとうな質問。そのルターがどうして教会に拒絶されたのか。「本気になってもらっては困る」パウロの共同体、ここまで共同体はうまく回っている。大きな争いもなく、運営もうまくいっているし、人々からの評判も良い。少しの問題はあったとしても、この状態を維持することがみんなの幸せに通じる。それが復活が本当ににあったのだの、イエスが証拠だの、復活は希望の対象であって実際にあったかなかったかなどはどうでもいい。これまでのバランスが崩れるようなことはやめてくれ。「本気になってもらっては困る」パウロは何が変わり、何が変わらないのか。教会を迫害するパウロ。徹底的に迫害する。共同体の信仰を探究していく。イエスが言っていることが自分たちの信仰に合致する。それを徹底する。パウロは実は何も変わっていない。本気でやっているだけ。ユダヤ共同体はローマ帝国に飲み込まれる。キリスト教はローマ帝国を飲み込んで行った。本気になれるものそういうものとの出会いが世界に残っていく。2026.07.24 06:26
7月5日 主日礼拝7月5日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録 25章13~27節聖書の世界は自由主義か共同体主義か。イエス、パウロ、どちらも「裁判」を経験する。裁判を通して生まれた教会。裁判を通して教会はどのような爪痕を残したのか。閉鎖された世界での独り言ではない、公の場での言葉が求められる裁判。パウロはユダヤの裁判からローマ帝国の裁判へと進んで行った。より多くのものへ、より広い世界で教会の言葉は注目をされた。教会が裁判を通して世界に残した爪痕、宣伝効果。もう一つの爪痕。イエスの裁判も、パウの裁判も裁判長・帝国の総督が無罪の判決を出してもそれが実行されない。イエス、パウロ、彼らは主体の言葉、考えを大切にする。自由主義の者とも考えられる。だが、彼らは裁判へと赴く。パウロの至っては自ら進んで裁判の場を求めている。秩序、法を重んじている。共同体を大切にしている。共同体主義でもある。律法が大事だ、秩序、民族性が大切だと言っているユダヤ人たち。この者たちは共同体主義の者のような発言をする。だが、採決には従わない。共同体の柱である裁判を彼らは拒絶する。イエス、パウロに代表される教会は共同体を軽んじる者ではない。そして、彼らは共同体に大きな課題があることも突きつけた。裁判が成立しないものがある。共同体が壊れる時がある。神の言葉。これは共同体・人の製作物では追いつけない。人は誰しも神からの使命・賜物を持っている。個性、性質、傾向。それが本当に神からのものであれば、時に共同体に収まらない。共同体を壊すものとも非難される。イエス、パウロも同じ。秩序を壊すものと拒絶された。だが、その結果、次の秩序、新しい共同体を生み出して行った。自由と共同体。これを連続させてきたのが教会の歴史。そこにはいつでも神という高い次元への意識があった。自由と共同体が二者択一になる現実があるのなら、そこには「神」はいない。心を高くあげる。この地平での衝突が些細なことに見えてくる。2026.07.22 07:16
6月28日 主日礼拝6月28日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師宗教はオワコンなのか?人類至上主義神を必要としない世界。理性至上主義の末に人が生み出したものAI。欲しかったものはこれなのに、これに自らの存在が脅かされている。本当は私たちは何がしたかったのか?なにを考えていればよかったのか?この時代への問いかけに、宗教はけっこう素材がありますよという思いを持っての礼拝のお話し使徒言行録25章1−12節ユダヤ人はなぜパウロを憎むのか。律法を大切にするユダヤ人。律法、秩序、これをなぜ重んじるのか。組織、共同体を守るため。ユダヤ人たち、彼らは共同体主義のもの。一方のパウロ自分の信じるもの、主体を大事にする。「私」「主体」「個」それぞれの在り方が許される環境。自由な環境。それ故、自由主義とも呼ばれる。ただ共同体主義のユダヤ人たち。彼らはパウロに下される無罪の決定、これを許さない。共同体を維持する根幹の「法」を彼らは守ろうとしない。ユダヤ人が守ろうとしているものは本当は何なのか。パウロ、イエス、この者たちは自由主義なのか。人は安息日のためにあるのではない。安息日が人のためにある。既存の律法を無視するかのような自由主義的発言。ただ、イエスが見ていたものは、自分の主張ではない。神を見ていた。神の御心は何か。それを常に捉えようとしていた。共同体を大切にしているかのようなユダヤ人。彼らは法を守らない。彼らの中にあるのか結局は前例や、誰かの言葉。自分で吟味したことのないただ反復されるだけのもの。ファジーな全体主義。イエス、パウロ、彼らは吟味する。問う、神の御心がなんであるのか、徹底的に問う共同体主義と自由主義の衝突。20世紀に顕著になったもの。どちらも原因は同じ。理性の台頭、人が世界の中心になった。すなはち神が不在になった。神へと常に思いを馳せる。中心は私ではない。権力のあるあの人でもない。神を中心に据える。そこには常にあのイエスの最初の言葉がつながってくる。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」自分を疑う、自分を真ん中にしない、悔い改め。それは人がぶつかり合うだけの現実と称される世界を別のところへと押し上げる。神の国自由か、共同体か。それがぶつかり合う地平からその先へと私たちをいざなっていく。2026.07.22 07:15
6月21日 主日礼拝6月21日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師自由主義か?共同体主義か?教会の歴史この「極」を彷徨ってきた歴史。ーーーーーーー使徒言行録24章24−27節不当な裁判である故パウロを釈放したいローマ総督。ただ社会情勢を鑑みた時に、その決断はできない。やむなくパウロを幽閉する処置をとる。その間、総督はパウロからイエスについての話を聞く。パウロから話を聞く総督フェリクス。ところが聞いている最中、恐ろしくなり話を打ち切る。フェリクスは何を恐れたのか。聖書にその内容は記されていない。ここからは解釈、想像の領域。ただ、この想像は教会の歴史を知るうえで必要なものと考える。パウロの言葉・手紙に記されているもの。たとえば「信仰・希望・愛」現代の私たちには違和感のない言葉。だがこれが当時は恐怖の対象、嫌悪の原因だった。なぜか。当時の人々の世界観。律法をはじめ社会のルール、より明確には「神」、この神のご意向に沿うことが何より大切だった。神の意向、システムに従うこと、それだけが人々の関心事だった。ところがイエスも、パウロも「神」という「自分の外」を意識し、その意向を実践するためには内なる「私」も確認することを勧める。「信仰・希望・愛」内省の言葉。自分の内なる吟味を促すもの。これらは他者に表せないもの、他者が確認できないもの。外に出せない、検証できないもの、それは考えるに値しない、考えてはならないものと処理されていた。当時の世界観には「自分」を考える思考回路すらなかった。自分を考える。その思考に気が付いた時「恐ろしくなる」「嫌悪を覚える」それが当時の人々。故にイエスもパウロも否定された。自分以外のものが大事、社会が大事、それは否定されるものではない。ただ「自分を考える」この自由主義の発想とは対立する。人の個性を意識化させずに、個人を暴走させずに社会秩序を成立させる共同体主義。社会の最低単位である「自分」の納得のいく人生を歩む自由主義。この両者は相反すること。教会はこの相反する二つの「極」の間を振り子のように動いてきた。相反していながらどちらも重要答えは一つではない。決定化されない。動きながら2000年、歩んできた。教会の歴史。振り子は今、どこにあるのか。その両極は絶対なのか。歴史から考えなければならないこと。2026.07.22 07:15
6月14日 主日礼拝6月14日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師教会は何を伝えてきたのか?今もそれを伝えているのか?使徒言行録24章10−23節イエスもパウロも裁判にかけられる。証拠も、証人もいない。裁判として成立しないにもかかわらず、それを実行しなければならなかった。ユダヤ人の思惑、彼らは何を考えていたのか。イエス、パウロ、教会彼らは何を伝えたのか。ユダヤ人が裁判にかけてまで封じ込めたかったもの。恐れていたもの。イエス、パウロ、教会が伝えていたもの。それは同じもの。希望。ユダヤ人はこれを恐れ、教会はこれを伝えていた。古代において「希望」は現代の私たちの感覚とは異なるものとして扱われていた。原因のわからないもの。説明のできないもの。それでいて人に影響を与えるもの。疫病と同じ構造。それを捉えるのに「理由」「原因」説明がつかない。パンドラの箱に残されていたのは「希望」邪悪なものの根源が「希望」なのか、希望が排出するのを期待するのか、いくつもの解釈が生まれるが、邪悪さと隣接しているものが希望と考えられていた。神。私は、私、私として在る。聖書の神は自らを他の言葉に置き換えない。説明の言葉を持とうとしない。説明、依存するもの、他に置き換えるそれをしない。依存、他者にすがらない、自由なもの。神、希望イエス、パウロ、教会はそれを伝えてきた。希望で社会は維持されるのか。希望で未来は築けるのか。希望ではなく、説明ができる、社会性のあるものこそが優先されるとユダヤ人は考えていた。希望は無価値なものなのか。教会の歴史2000年。希望が何を生み出してきたのか、時間がそれを証明している。2026.07.22 07:14
6月7日 主日礼拝6月7日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録24章1−9節三位一体異なるものが個々に重なり一つのもの、全体を写しだす。パウロの時代、三位一体の表現はまだなかったであろう。ただ、彼の思考の中にはすでにこれはあった。自分の経験。自分が学んできたユダヤ教。それとイエスの言葉があまりに違う。当初、パウロはイエスを否定して解決をしようとしていた。だが、重ねた。重ねて、神に近づいた。三位一体の思考方法。これは過去、キリスト教の話に止まるものではない。これからこの思考をますます求められる。「成長」私たちはこの言葉を肯定的に捉える。畜産業。鶏、豚、牛はいつ屠畜されるのか。成長が止まった時。成長が止まったものに餌を与えるのは無駄なこと。ここにあるものは成長は肯定され、成長がないものは否定される。これは家畜だけの話ではあるまい。私たち人間も成長が強要され、成長のなきものは評価されない。地球規模でも成長が求められ、それを人はひたすらに求めている。ただ、地球のパイは決まっている。その決まった中での奪い合いを「成長」と呼んでいる。Co2、奪い合いの結果、排出されるもの。排出量を減らすことの必要性は誰もが分かっている。それへの手立ても提案される。それでも成長を止めるわけにはいかない。現実にはただ先送りされているだけ。Co2の排出はいけない。成長を止めるわけにはいかない。相反するものがぶつかっている。答えを見つけられないでいる。生成AIアルファ碁が囲碁のチャンピオンに勝利した。私たちを驚かせたが、この出来事は人類が今後直面する課題を突きつけてきた。対戦の中でAIが打った思いもよらぬ一手。誰もが誤手だと思った。AIの実力とはこんなものかと思っていた。ところが対戦が進むうちに「誤手」と思われていたものが「決まり手」だったことが明らかになった。ここには二つのことが秘められていた。一つはAIは人の想像を遥かに超えることを実行する。そしてもうひとつの深刻な問題。AIがどうしてその一手を打ったのか、そのアルゴリズムが人には解析できない。医療に導入されるAIそれが患者の腕を切り落とせと回答する。バグなのかバグでないのか人には判別ができない。その時、人はどう決断をすれば良いのか、因果律からの思考方法ではその解決は見出せない。Co2、AI、私たちは解決のできない異なる問題に直面をしている。三位一体。神とイエスは対立をしている。その対立の中から神、世界の秩序を浮かび上がらせた。異なるもの、矛盾、答えの見えない課題。私たちが三位一体を信じるとは、これらの課題を重ね合わせることに挑むこと。何かを否定するのではない。全てを受け入れ、全てを愛して、それらを重ねていく。必ず私たちのまだ知らない「良い世界」が現れると信じて重ねていく。三位一体の信仰。今、求められている。2026.07.22 07:11
5月31日 三位一体主日礼拝5月31日 三位一体主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録2章14−24節三位一体主日教会の中で度々、議論されてきた三位一体。神は一つなのか?三つなのか?オーケストラはそれぞれの楽器が自分の旋律を奏でる。各々、別の旋律。それが重なり合うと、そこに一つの曲が浮かび上がる。一つ一つでは分からなかったもの。重なってはじめて分かるもの。父なる神、子なる神。聖霊なる神。一つ一つはバラバラ、それが重なり合うと、神が現れてくる。ペテロの説教。イエスについて語る。イエスは突然現れたものではない。過去から、この世界の初めから約束をされていた方。神の計画として、神の約束として与えられたもの。過去と今がつながっている。父なる神と子なる神が重なっている。ペテロはそのつながりを語る。それは聖霊の力による。神の力とは何か。神とは何か。世界が、時間がすべてつながっている。それを私が実現し、実践する。世界と私、時間すべてがつながっている。神とは何か。世界に神と無関係なものは何一つない。全部、つながっている。敵私とつながっていないもの。それはこの世界にはない。人が勝手に仕立てたもの。この世界にあるものつながっているものだけ愛だけ神から知ること 2026.07.22 07:09
5月24日 ペンテコステ礼拝5月24日 ペンテコステ礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師使徒言行録2章1−13節ペンテコステ聖霊降臨の出来事とは何か。十二使徒に聖霊が降り注がれる。彼らは聖霊が語らせるままに諸国の言葉を語り出した。自分の知っている言葉ではない。自分の言葉でないものを語り出す。使命・私のしなければならないもの。自分の知っている言葉を繰り返す。自分の好み、興味関心を深掘りする。聖書はそれを使命とは言っていない。私にはできない。私の役割ではない。そう私が思っても、神が、世界が「あなたにしかそれはできない」と告げるもの。それが使命。私のしなければならないこと。私が自分を超えて変えられていく。ペンテコステに起こった一つのこと。もう一つのこと。エルサレムで暮らしていた外国生まれの人々。そのものたちが使徒たちの言葉を聞いて驚く。外国生まれの人々。ユダヤに血筋は持っている。だが、生まれたのは外国。そこで生まれ、そこで育つ。そこの言葉で暮らしていた。家族とも、親しい仲間ともその言葉で暮らしていた。終末信仰を持つものは、生まれ育った外国を離れ、血筋のあるユダヤ、エルサレムに帰ってくる。最後の時、神はエルサレムに暮らすものを救うと信じていたから。生まれ故郷の言葉を捨てて、エルサレムで許される言葉で生活をしていた。自分の過去に蓋をして、自分を隠して暮らしていた。それがエルサレムで生きる方法、神に喜ばれる方法と信じて生活をしてきた。使徒たちの言葉。生まれ故郷の言葉。隠し、捨ててきた言葉を聞く。その言葉は神を賛美している。隠さなくて良い、封印しなくて良い。この私で良かったんだ。ペンテコステに起こったもう一つのこと。使命とは何か。私の気が付かない「私」本当の私がなすこと。生きるとは何か。私が私を捨て偽りの私になって同調をすることではない。この私が、私を生ききること。ペンテコステの出来事は何か。私が私でいること。私は私を知っているのか。ペンテコステ私が私に向き合う時。2026.07.22 07:08
5月17日 主日礼拝5月17日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ルカによる福音書24章36〜53節復活とは何か。復活物語の中でイエスは弟子たちに語る。私は亡霊ではない。肉も骨もある、と。エデンの園。アダムが最初にエバに出会った時、「これこそ私の肉の肉、骨の骨」と言った。ユダヤ社会では人の尊厳を「肉と骨」で表す。イエスは弟子たちに告げる。預言の言葉を思い出せと。「メシアを苦しみを受けた後、三日目に甦る」「罪の赦しを世界の果てに告げる」メシア、救い主。人は救いを拒絶する。勘違いであっても救いを拒絶する。救い。前に進みたい時、その可能性を与えてくれるもの、救い。救いがない。それは進めないこと。そこに止まること。閉じていくこと。メシアは三日目に甦る。救いを拒絶したとしても、その救いは、継続している。救い終わることない。救いが必ずある。前に進むことが終わることはない。私には骨と肉がある。人の出会いの時の最初の言葉。いつでも最初になれる。終わりがない。だが私たちは知っている。この世界にあるものは全て終わりがあると。人の命も、関係性も、国家も、物質も、宇宙も、すべて終わりがあると。それでも聖書は語る。終わりがない、と。ならば私たちは考えなければならない。「終わりがあるもの」と「終わりがないもの」がこの世界にある。「終わりがないもの」とは何か。「終わり」モノの崩壊。物質の崩れ。人も物質でできている。宇宙も物質でできている。それは必ず終わる。この世にあるものは全て物質か。本当の私。私の信念、私の使命。「これが私」と私が私に納得のできるもの。それは物質ではない。説明、言語化ができない何か。何かではあるがそれはちゃんとある。私だけが分かる私。それは終わりに支配をされないもの。終わりのないもの。私たちは持っている。終わりのないものを。復活とは何か。私の内にある終わりのないものと出会うこと、信じること。私が私を知る。それは私に永遠の命があることを知ること。 2026.07.22 07:05
5月10日 主日礼拝5月10日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ヨハネによる福音書 21章 15〜19節復活したイエスはペテロに三度、「私を愛しているか」と尋ねる。三度、ペテロがイエスを否認したのが三度。その三度を補うかの様に、イエスは三度尋ねる。「私を愛しているか」これにペテロは答える。「はい、愛しています」と。ギリシャ語原文ではイエスとペテロがそれぞれに用いている「愛している」が異なっていることが注目されてきた。イエスが用いる「愛」原語ではアガパーン。これは崇高な愛と言われてきた。これに対してペテロの「愛」。これはフィレオー。友情等を表す日常的なもの。イエスは「私をアガパーンするか」と問い、これに対してペテロは「フィレオーします」と答える。三度、イエスを裏切ったペテロ、今更、アガパーンなどとは言えない。自分の使えるものはせいぜいフィレオー。それが三度、繰り返される。三度目、イエスがペテロに尋ねたのは「私をフィレオーするか」。イエスの方が歩み寄った、ペテロは自分が赦されたのを感じた。と、されるのが一般的な解釈。ただ、これだと一つの課題が残る。三度目にイエスが「フィレオーするか」と問われた時、「ペテロは悲しくなった」と聖書は記している。アガパーンと言いたくても言えない。フィレオーとしか言えない。それがイエスの方から「フィレオーするか」と問われる。イエスが歩み寄ってきてくれたのだから「嬉しくなった」「安心した」なら話が分かる。だが、ここでのペテロは悲しくなっている。なぜ、ペテロは悲しくなったのか。テキストが用いる「悲しさ」の整合性は何か。三度聞かれた。それが原因と聖書は記している。同じことを三回、聞かれた。自分の言葉が、自分が信じられていないのではないかと思い、悲しくなった。自分がフィレオーを用いている。それはペテロには実は大した問題になっていない。それ以前にペテロは気がついていないのではないか。イエス様がアガパーンと言っているのに、自分がフィレオーとしか答えていないことに。イエスとずれている。天地の始めから神と人はずれていた。神に似せて造られているのに、自分は神とは違うと思い込む人間。神とずれている。人とは何ものか。ずれているもの。イエスはペテロがフィレオーすると言っている1回目から3回目まで、ペテロに同じ様に接している。「私の羊を飼いなさい」私の大切なものをあなたに委ねる。あなたに渡す。イエスは同じ態度をとる。ずれている。百も承知でペテロを信じ、ペテロに委ねている。私たちもおそらくは同じ。ずれている。隣人と、世界と、神と、ずれている。だが、それでも神は私に使命を与えている。賜物を与えている。分かっていて与えている。ならばそれは決して失われない。失われないもの。私にだけあるもの。それを見出し、果たしていく。ずれているもののやるべきこと。2026.05.13 06:03
5月3日 主日礼拝5月3日 主日礼拝礼拝説教伊藤大輔牧師ヨハネによる福音書 21章 1〜14節ヨハネ福音書が記すイエスの復活の物語。マリアとイエス。トマスとイエス。ペテロとイエス。全て、最初、彼らは分からない。イエスだと分からない。それがある時を境にイエスが分かる様になる。私は世界を見ている。世界をわかっていると思っている。だが本当は見ているのに見えないのかもしれない。世界を分かっていないのかもしれない。世界が見える、世界が分かるとはどういうことか。マリアはイエスに自分の名前が呼ばれた時に世界がはっきり見える様になった。「マリア」名前。名前それが呼びつづけられること。それは存在が肯定されていること。刑に服しているものは「名前」が取り上げられる。行為、これまで、その存在、それが服役中は否定をされているから。「名前」それは存在の肯定の証し。イエスはトマスに言う。「お前の指を私の掌の傷か跡に、脇に傷跡に差し込んでみろ」その時トマスは叫ぶ。「我が主、我が神」トマスが自分の指で確かめなければイエスだと認めないと言っていた。イエスは「それをしろ」と言う。トマスを肯定している。漁にでたペテロ。何も取れない。イエスはペテロに言う。「船の右に網を打て」おびただしい魚が網に入る。その時、ペテロはイエスだと分かる。魚を取ろうと思った。だが魚は取れない。イエスの言葉に従った。魚が取れる。自分のしたかったこと。予定していたこと。それが実現した。自分の思いが肯定された。彼は何をきっかけに分からなかったイエスが分かる様になったのか。世界がどうしてはっきり見える様になったのか。肯定された時。自分は、私はこれでいいと分かった時。天地創造の物語。神が世界を造る。その世界を神はご覧になって「良い」と言う。神の然り肯定それが世界の秩序、あり方。世界は肯定でできている。だが人は否定を持ち込む。自分には不足しているものがある。自分はダメだ。その不足を補うのが人生の課題。人はどんなに生きたいと思っても最後は「死」で否定される。世界は「否定」が最後に現れると、私たちは思っている。イエスは復活をした。「否定」が最後ではない。「肯定」がその先にある。世界は肯定でできている。私はこれでいい。これで大丈夫。私が私を肯定した時、世界がはっきりと見えてくる。この世界は「然り」で出来ている。「肯定」で出来ている。平和が必ず訪れる場所になっている。 2026.05.13 06:02