本多記念教会

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あとにひかない

2019年3月24日伊藤大輔牧師 創世記31章1−21節 ヤコブの物語。家族から追われ故郷を離れ本来の場所にいられない者の物語。本当なら私はここではなく、あそこにいられたのに。あそこが私の場所だったのに。バビロン捕囚を経験したユダヤの民のみならず、私たちの思いの中にもあるもの。私のいるべき所、帰るべき所に人はもうたどり着けないのか。
 物語はついにヤコブが自分の故郷に帰る決意をする場面を迎える。そのヤコブの周辺で二人の者が奇妙な行動をする。ヤコブの妻のラケル、その父、ラバン。ラケルは夫ヤコブの故郷への帰還の決意に賛同する。ところが彼女は出発の際に父の「守り神の像」を盗み出す。目的は分からない。ただ、これが父に知られればヤコブの計画が頓挫することは明白なこと。案の定、父ラバンはヤコブの家族を追跡し、守り神の詮索にあたる。このラバンはヤコブに追いつく直前に夢を見ている。神から「ヤコブを一切非難するな」と。ラバンもそれを承知したかの口ぶりでヤコブと対峙するが実際は「守り神」のことで非難をしている。ラケル、ラバン、この二人は行いと思いが離れている。一つの示唆がここにあるのではないか。本来の場所と離れてしまう。思いと行動が離れてしまう。それは私たち誰しもの姿。理想と現実、計画と実際、分離の世界で私たちは暮らしている。その世界でヤコブは自らを貫く。ラケルが上手に「像」を隠したこともあり、ヤコブはこれまでのラバンの不正を直接訴える。本当は妻が隠蔽しいるものがあるにも関わらず、それを知らないヤコブは自らの思いを主張する。人はどのようにしたら本来の場所にたどり着けるのか。私たちの現実は自分も含め「理想と現実」のように分離の中にいる。一方ヤコブは分離していない。思いと行動が重なっている。元々は神がヤコブに語りかけたことが発端ではあったが、ヤコブは思いと行動が一致している。本当の状況はそれが許される状態ではない。それでもヤコブの思いと行動は一致できた。人は本来、自分の願い、理想を叶える条件を持っていない。条件も持っていない代表であるヤコブに神は語る。「あなたを必ずここに連れ戻す」。罪人が神の前に出ていけるのか。いけるはずがない。人の現実設定では「分離」こそが我らの現実。だが神の現実は違う。必ず行かせる。受難節。主の十字架。神の約束、神の愛を信じる。わたしは私の場所に行ける。  

一度死ぬ

2019年3月17日森下滋伝道師サムエル記下12章13-15節コロサイの信徒への手紙2章16節-3章5節 ペリシテ人との戦いに勝ち、全ユダとイスラエルの王となったダビデの所に、預言者ナタンがやって来て神の言葉を取り次ぐ。「あなたは死の罰を免れる。しかし生まれてくる子は必ず死ぬ」。主を軽んじた不貞の結果は死ななかったダビデから取り去られない。 パウロは言う。「あなた達は裁かれてはならない」(v16直訳)。そして「見下されてはならない」v18。何故か。私達はキリストの十字架による勝利にも関わらず、生きている中ではスキがある。ダビデの様に。 v23は「肉に耽ることには全く価値が無い」と告げる。それは一見宗教的に、或いは人間的に価値が有りそうな事に潜む。私達の捧げる礼拝はどうか? v17で「これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります」とある。私達は影に惹かれて影踏みをしている。自分の後ろに光がある時には自分の前には自らの等身大の影が現われる。私の姿。実際に見たり大切にしている事を肥大化させた時、それは影であり価値が無い。こうして人は神に仕える天使を、神から離して崇拝し神の代わりとした。哲学を神の上に置く事に喜びを得た。 私達は「地ではなく上に注意を払い」「一度死んだ私達の命はキリストと共に神の内に隠された」。一度死んだのにも関わらず私達は何に耽るのか。だから私達は「家庭、国家、社会、教会をも治める」必要がある。上を向くのだ。私達が地で影踏みに耽るとき、教会に於いてキリストは今も十字架にかけられようとされている。この世でまだ一度死んでいない者をイエス・キリストは十字架の上から招いている。「ダビデはナタンに言った。『わたしは主に罪を犯した。』ナタンはダビデに言った。『その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる』」。キリストを信じて一度死ぬしかない。

神の守り

2019年3月10日伊藤大輔牧師使徒言行録18章1-17節聖書には裁判の場面が多く登場する。私たちも終わりに日に「裁きの場」に立たされるとの表現もある。裁判は私たちに無関係ではない。裁判とは何か。行為、言葉、思考、裁判で取り扱われること。そして根本的に問われるのは「わたしは何者か」ということであろう。それが義と認められるか、否か、私のすべてが問われる。パウロも何度か裁判の場に連行される。パウロを訴えた人々、この者たちは「わたしは何者」としているのだろうか。アテネの人々は偶像を量産していた。コリントの者はパウロを執拗に付け狙い、ローマ帝国の総督に裁きを依頼した。偶像を量産するもの、権威にすがるもの、思考の構造は同じであろう。エバを唆した蛇の言葉のごとく「わたしは欠けているもの」。それを補うために「偶像」「総督の権威」に依存する。「わたしは何者か」「わたしは欠けている」「欠落を埋める沢山のものを必要とする者」。一方のパウロ。彼はユダヤ人に熱心に福音を語る。だがそれは聞き届けられず、誹謗中傷される。パウロはついに決断し、ユダヤ人との別れを宣言する。同胞との訣別。怒ったはずみではない。パウロの心の現れ。パウロは血に、民族に、国に、依存していない。執着していない。それゆえ別れられる。捨てられる。それは大きな決断であり、孤独の覚悟でもある。そのパウロに神が語る。「恐れるな。わたしが共にいる。この町にはわたしの民が大勢いる」。それから一年六か月後、ユダヤ人たちの手によってパウロは捕えられ総督ガリオンの前に連れ出される。ユダヤ人がパウロの罪状を並べ立てる。裁判が始まる。「わたしは何者か」。パウロが自らを語ろうとした時、ガリオンが割って入る。「審判はしない」。この町にはわたしの民が大勢いる。ガリオンもその一人。「わたしは何者か」。パウロはこれを語らなかった。わたしは何者か。「わたし」は私が執着と固執から作り出すものではない。私は何もしない。語ってくれる。わたしを見ている大勢の神の民が。そして神がわたしの代わりに「わたし」を語ってくれる。「わたしは何者か」。答えなくてよい。神がする。わたしただ神を信じる。裁きの日の「わたし」が築かれていく。

神とは

2019年3月3日伊藤大輔牧師使徒言行17章16-34節「復活を信じる」キリスト教信仰の根幹。「復活を信じる」とはどういうことなのか。パウロはアテネで「神」について語る。アテネは哲学の都。パウロにも哲学の素地はある。話はかみ合っていたのであろう。だからこそアレオパゴスの丘に招待をされた。そこでパウロは語りだす。そして復活について語る。すると、あるものは笑い出し、多くのものが立ち去った。復活が絵空事に思えた。復活が分からない。アテネの人々の心はどのようなものなのか。アテネには多くの神々が奉られていた。人よりも神の方が多いと揶揄されるほど信仰にあつい都。その様子を見てパウロは憤慨する。信仰をはき違えていると。 アテネの人々の信仰とはどういうものか。彼らは多くの神を信仰する。なぜか。不満が解消されないから。この神に願い解決を得る。だが、次の課題にその神が対応できなければ別の神様へ。不満が生まれるごとに神は増殖する。自分の守り神を作る。ここには何があるのか。心配がある。不安がある。恐怖がある。それを取り除いてくれるのが神。アテネの信仰。それは私を助けてくれる神を探し、信じること。それは私に仕える神を求めること。神という名の奴隷を持つこと。それは信仰ではない。パウロは憤慨する。神殿を、偶像をパウロは否定する。神は人の力を欲してはいない。神とは何か。神は人の助けを必要としない。何かを頼りにしたり、依存したり、支配されたりもしない。神は神以外のものがなくても神としてある。その神の一人子が復活した。何が起こったのか。支配されない。死にも支配されない。神は死よりも大きい。人は死に怯え、自らを助けてくれるものに執着する。「悔い改めろ」とパウロは言う。悔い改めとは何か。表面の悪事も悔い改めの対象ではあろう。だが、悔い改めとは反省ではない。人の心の根源にあるもの。「死」への怯え。「死」を遠ざける助け手。助け手への執着。執着が私を支える源とする自己理解。世界観。それを問い直せ。悔い改め。私は支配されていない。パウロもかつて世界が変わった経験を持つ。執着は必要ない。パウロには怯えがない。故に迫害にあっても、復活が理解されなくとも語り続ける。正義、真実。死を意識したら歪んでしまう。死は小さい。復活を信じる。復活を信じるとはどういうことか。世界が求める大切なことを行う力。復活を信じる。わたしの中に生まれてくる。

思い出す

2019年2月24日伊藤大輔牧師創世記31章1-13節 ヤコブの物語。古代より伝わる物語は人の姿を映し出す。私の姿勢が語られている。 「それを食べると神のようになれる」。エデンの園で蛇がエバに語った言葉。「あなたには欠けているものがある」。この蛇の言葉から人の心は始まった。私は不十分、補わなければ、獲得しなければ私は駄目になる。執着、固執が始まる。ヤコブは兄エサウが受け継ぐはずの「長子の特権」と「祝福」を奪い取る。これがあれば生きられる。それをめぐって家族の間で諍いが生まれる。執着がこの家を突き動かす。ヤコブは家を追われ叔父ラバンの所に身を寄せる。ラバンはヤコブを利用する。娘二人を嫁がせて、20年都合よく働かせる。ヤコブの妻二人はヤコブの愛を獲得するために競って子どもをつくる。ヤコブは何故20年も不当な仕打ちに耐えたのか。二人の妻は何故子どもの競争をしたのか。そこには同じ思いがあったのではないか。「わたしは不十分」。だから相手よりも多く子どもを作らなければ愛されない。「わたしは不十分」。だから不当な仕打ちにあっても叔父の所にいなければならない。「わたしは不十分」。その不安が彼らをあおりたてる。 ヤコブが神の夢を見る。神は変わらず、ヤコブと共にいたという夢。その夢で「家に帰れ」と告げられる。ヤコブは何故エサウのものを奪い取ったのか。家にいたかったから。家にいるためには不十分な弟は兄が持っているものが必要だと思った。固執、執着で自分の場所を確保しようとした。しかし、それを獲得した時、ヤコブは家を失った。執着、固執では自分の願いはかなわない。どうすれば家にいられるのか。変わらぬ神が「行け」という。ヤコブに足りなかったもの。執着の力ではない。「足りない」と思い込む自分を見つめなおす心が足りない。変わらぬ神がいるという信仰が足りない。「あなたには足りないものがある」。これは蛇の言葉。「すべては良い」が神の言葉。私には足りないものはなにもない。その真実に気が付いたとき、ヤコブはすがりついていた叔父のもとを後にする。私が本当に求めていたものとの出会が始まる。

勝利を我らに

2019年2月17日森下滋伝道師 哀歌5章19-22節 コロサイの信徒への手紙2章:6-15節 紀元前586年。エルサレム包囲からのバビロン捕囚。悲しみの中にある民の叫び、うめき、祈りが込められた歌。 1963年08月28日、ワシントン大行進。集まった会衆は歌った。私たちは乗り越える、いつの日か。 困難の中にある者を神は捨ておくのか。 しかし、パウロはコロサイの教会がキリストに結ばれて歩むことを喜んでいる(6節)。そして注意を喚起する。実態の無い騙しごと、それは流行りの哲学であり、諸霊に従う事であると。キリストの内にこそ神の性質が体の形として充満している。よって私たちはキリストの内において完成させられた。充たされ続けている。 しかし私たちには肉の割礼ではなくキリストの割礼が求められている。それは肉の体を脱ぎ捨てる事だ。肉と体をどこで分けるのかは大変困難である。しかしロマ書11:14でパウロが異邦人の救いに関して、肉と表現している意味は、自分の同胞という事である。キリストの割礼とは古い連帯から新しい連帯へと移行する事であると。それは私たちがこよなく愛するこの世の肉の家族から新たな神の家族へと移行する事である。 洗礼により古き連帯はキリストと共に死に、新しい連帯へとキリストの復活の故に起き上がる。 私たちは古い割礼のみを受けて罪の中に死んでいた。しかし新しい割礼と共に全ての罪は赦された。キリストが自らを十字架の上でさらし者となり辱めを受けた事の故である。そして大胆にさらし者となったキリストはこの世の支配者に公然と勝利された。  私たちは虚しい騙しごとを信じ、肉の家族だけを愛して充たされてはいないであろうか。信仰と聖霊の力により古い連帯から新しい連帯へと解放されよう。その時この世の家族を真に愛する事が出来、キリストのように愛を行いとして表現する事が出来る。 キリストの内にいる時、勝利は我らにある。

その先にあること 

2019年2月10日伊藤大輔牧師使徒言行録17章1-15節
 使徒たちの伝道は迫害と隣り合わせ。迫害をするもの。それはユダヤ人となっている。ユダヤ教を信じる者たち。信仰者。迫害の首謀者は信仰者。ユダヤ教だからではない。歴史はすでに告げている。宗教は争いを、戦争を引き起こしてきた。信仰と暴力。これはいつでも絡み合っている。パウロ達は暴力を受ける側の信仰者。ユダヤ人たちは暴力を実行する信仰者。どこで信仰は暴力と連結するのか。
 パウロ達を非難するユダヤ人の主張にはある共通性がある。教会の言葉が、「自分たちの習慣を否定、変革するもの」に聞こえてしまう。ローマ人たちも巻き込もうと「皇帝の他に王がいる」と言っていると吹聴もする。教会の言葉は「新しい」「違う」「これまでを壊す」だから排除しなければ。教会の言葉は本当に新しいのか。使徒言行録が記す使徒たちの言葉は旧約聖書を引用し、これまでユダヤ教が信じてきたものが実現したとするもの。人々が伝統的に信じてきた言葉。これまでと変わらない言葉。新しくもなんともない。
 信仰と暴力はどこで結びついたのか。ユダヤ人たちはパウロたちを排斥しようとする。力によって。自分の努力によって。私がしなければ誰がする。立派な心がけ。一方のパウロ。パウロは「変わらない言葉」を語る。それはパウロの現実認識の表れではないのか。何も変わらない。それがパウロの認識。何が変わっていないのか。神は変わらない。世界を造られた時から、始めから変わらない。神は世界を見て「良し」と言われた。この世界が大好きだとされた時から何も変わらない。神が世界を、私を大好きだと思っている。ならばどうして私が頑張る必要があるのか。信じていればいいだけ。
 信仰はどこで暴力と結びつくのか。神が信頼できなくなった時、神の代わりに自分がしなければと思った時、神に怒り出した時、暴力が生まれる。「神は変わらない」との言葉が目障りになる。
 何をしても、しなくても私は神に愛されている。どんなに受け入れがたい現実と直面しても私は神に愛されている。だから私は自分に執着しない。信仰は暴力を誘発する。そして信仰は暴力から解放もする。信仰それは執着か、自由か。私の心が問われている。

闇の中で始まる

2019年2月3日伊藤大輔牧師 使徒言行録16章25-40節
 パウロとシラスはフィリピの町で役人に取り押さえられ投獄される。女占い師に取り付いていた霊を追い出したから。この占いによって金儲けをした者から恨まれ罪を捏造され捕まえられる。その夜、大きな地震が起こり監獄の扉、鎖が全部はずれる。目を覚ました看守は扉が全て開いているのを見て囚人が逃げ出したと思い、責任を取って自害しようと剣を抜く。ところがパウロが牢の中から大声で叫ぶ。「皆ここにいる」。喜んだ看守はパウロとシラスを家に迎え入れ歓迎をする。そして家族はパウロから洗礼を受ける。 
 この話は読み手の気分を良くする話。だが、この話はそれだけではない。人の心のあり方。キリスト者の世界観が語られている。パウロはこの物語で何をしているのか。何もしていない。黙って役人に取り押さえられ、黙って地震の後も牢にとどまっている。何もしない。自分で自分を助けようとしていない。自分を守っていない。
 自分で自分を守らないと何が起こるのか。人を助けることができる。人に喜びを与えることができる。それがこの物語が私たちに告げている一つの現実。だが、疑問は残る。自分で自分を守らない。それは自分を諦めることか。自分を犠牲にすることか。主イエスも、理不尽な咎で十字架に架けられた。パウロも同じ体験をしている。パウロ、主イエス、犠牲をいとわない。キリスト者は自分を諦め、犠牲にならなければいけないのか。それが人の目的なのか。犠牲の覚悟それが私たちの理想か。おそらくそれは違う。私たちは自分を助けようとする、私を守ろうとする。パウロにも主イエスにもそれはない。犠牲の精神があったからではない。自分で自分を守る必要を感じていなかったから。私は私が守るよりもっと大きなものにすでに守られている。神に守られている。だから私は自分を守る必要などない。自分で自分を助けなければならないのなら、武力も権力も必要となる。戦いが秩序になる。自分で自分を守らない。戦いは成り立たない。戦いが当たり前と思い込んでいる世界の中にあって真の平和を指し示す使命を教会は担っている。自分で守らなくても私も、世界も大丈夫。 

神の訓練

2019年1月27日伊藤大輔牧師
              創世記30章25-36節 ヤコブ、イスラエル族長の物語。一国、一民族の祖の話ではない。人の始め、人の底に眠るもの。私とは何か。私を問う物語。
 双子の弟ヤコブ。兄エサウを出し抜いて、一家の家督を独り占めしようとしたもの。母リベカの応援があったとは言え、それを実行したヤコブにもその思いはあった。父からの祝福を奪えば自分が長になれる、なりたい。その結果、エサウの怒りを買い家から逃げ出し、叔父のラバンのところに身を寄せる。そこでヤコブは働きが評価され、歓迎もされるが、ラバンに利用もされる。ラバンの娘、レアとラケル、二人を妻とするが、どちらが多くヤコブの子供を設けるかの争いに巻き込まれ翻弄される。ヤコブは家族に振り回されたもの。家族とは何か。私と何か。自分を見失い、迷走するのが、家族の中の私。
 そのヤコブが自らの意志を表す。「自分の故郷に帰る」。これに対しラバンは「何を報酬とすればいいのか」と問う。実はこの問いはかつてもなされた。その際、ヤコブは報酬の中身を申告した。「ラケルと結婚をしたい」。その要求を逆手にとられヤコブは14年、働くことになった。「報酬の望みは何か」。ラバンの問いに対しヤコブは「いらない」と答える。報酬、目的、それを得るためには条件を獲得しなければならない。目的のために「条件」に支配される。かつてのヤコブは「支配」を受け入れていた。支配のもう一つの側面「依存」。ヤコブはラバンへの依存も実行していた。支配、依存、それが家族の中のヤコブ。私の姿。
 かつて家を追われラバンの助けを求めようと旅をしていたベテルでの夜。ヤコブは夢を見ていた。神が必ず連れ帰ると告げる夢。必ず守ると約束される夢。
 人には帰るべき所がある。神と約束した場所がある。人に依存し、支配されている時には見えなくなっているところ。家族という絶対的支配、依存の関係。絶対の先に、まだ地平は広がっている。神との約束。人は自分の行くべきところを思い出すため、神の訓練を受けている。 私の行くべきところ。すでに知っているはず。私の使命。

見えなくても喜ぶ

2019年1月13日森下 滋伝道師申命記29章:9-20節コロサイの信徒への手紙2章:1-5節 私たちは見る事が出来る。そして人生やこれからの将来を予測する。しかしそうして立てた計画や思いに沿って生きたとして本当に成功するのか。申命記29:1-3「主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった」。見えていると思っているのは自分の思いだけであり、本当は何も見えていない。だから私たちはいつもしるしを求める。それは私たちが見て、知る事が出来る事。しるしが与えられない時に私たちはどう生きるか。 申命記29章は呪いの契約である。主が祝福と同時に私たちと結ばれた呪いの計画。私たちが見ようとしないもの。この契約は普遍的契約であり、当然現在の私達に対しても有効である。では誰が呪われるのか。18節「祝福されていると思い込み」自分は「大丈夫だ」と思う者である。自分は見えているからと思う者は、一番呪いに近い。 しかしパウロはまだ見ぬ者の為に労苦している。何故か。まだ見ぬ彼らがキリストに愛によって結ばれるため。そして真の知恵と知識を与えられるため。それは神の計画、神秘、キリストを悟るため。それらは全てキリストの内にある。パウロはこの世の目では見ていない兄弟姉妹を愛している。霊では既に共にいるからだ。 パウロが愛したラオディキアの教会はその後、黙示録3章では生温い教会と神から告げられた。黙3:17では自分たちが「目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」と告げる。本多記念教会はどうか?神の目には、私たちが見えていると思って立てる目標や計画も必要ない。では神が求めることは何か?私たちはキリストの中において、愛によって結び合わされること。キリストと一つになる。教会と一つになる。他者と一つになる。キリストを知らないことは申命記の呪いの契約の内に留まること。何故私たちキリスト者の日常において、十字架においてこの呪いを打ち破って下さったキリストが一番の優先事項でないのか? 私たちは悔い改めよう。 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」ヨハネ16:33

神に仕える

2019年1月13日伊藤大輔牧師使徒言行録16章11-24節 永遠の命を得るにはどうしたらいいのか。本日は本多記念教会創立記念日。教会は永遠の命を知るもの。その永遠の命はどのようにすれば得られるのか。主イエスはこの問いに向かい「神を愛し、隣人を愛せ」を実行せよ、と告げる。だが問いは続く。隣人とは誰か。わたしたちは隣人をどのように選定すればいいのかと考える。隣人はどこに、誰なのか。主イエスの「良きサマリア人の物語」。傷を負った者の隣人となったもの。手当をし、介抱をしたもの。その者が隣人であると誰もが分かる。そして主はこの物語の最後に勧める。「行って、あなたも同じようにしなさい」。隣人は、どこにいるのか、誰なのか。探すのではない。待っているのではない。出かけて行く。なりに行く。近づいて行く。エルサレム会議の決定、パウロ自身も賛成していたこと、異邦人には割礼は必要ない。その決定がなされたすぐ後に、テモテを弟子にするためにパウロは割礼を授ける。周囲のユダヤ人のことを思って、彼らを大切に思って、自分の主義を捨てる。近づいて行く。出かけて行く。パウロは「マケドニアに助けに来てくれ」との願いを夢で見る。神の言葉だと確信し出かけて行く、近づいて行く。パウロの言葉を喜ぶものも現れたが反抗するものも出てくる。鞭で打たれ、投獄もされた。出かけて行って、近づいても、楽しいことばかりではない。つらく、悲しいことを近づいたばかりに経験する。近づいて、出かけて行って何になるのか。人の思い、経験からでは納得のいく答えは得られない。アブラハムも、ヤコブ、ヨセフ、モーセも神が共にいながら苦難と直面する。神が経験させる。神は人の予定調和の神ではない。つらい現実があるとしても「行って同じようにしろ」と神は語る。何が起こるのか。出かけて、近づいて、教会が生まれ、伝道が始まる。出かけて近づいて日本にも福音が伝わり、教会、学校が生まれた。近づいて本多記念教会も生まれた。2000年、教会はただひたすらに出かけて、近づいている。国家、企業、組織体、数百年で入れ替わる。宗教は1000年を優に超える。人の予定、計画が、かなわなくとも神に仕える。そうして歩んできた。永遠へと至る道。愚直に歩む。それが教会の歴史。これまでも、これからも教会はそうやって歩んでいく。

その先へ

2019年1月6日伊藤大輔牧師使徒言行録16章1-10節新しい年を迎えました。新しい年、私たちは今年がどのようになるか想像を働かせます。抱負、計画、予定を思い描きます。教会の未来への考え方。教会のものの考え方。どのようなものか。聖書からその考え方を聞き取りたいと思います。パウロは異邦人世界へと伝道に赴きます。その際、テモテを共に連れて行きたいと考えます。そのためユダヤ人たちを気遣いパウロはテモテに割礼を授けます。この直前、エルサレムで開かれた会議では、異邦人世界と教会との付き合い方の取り決めがなされた。そこではわずかな食物規定を守るだけが進められ、律法の厳守も、割礼の執行も含まれてなかった。ところがその会議の直後パウロは割礼を行う。ここに教会のものの考え方がある。 パウロは夢の中でマケドニアの嘆きを聞く。マケドニアそれは今までの所とは異なりローマ帝国の主権が明確になっているところ。ローマと異なる「神」、これを持ち込むことは反発は当然のこと、かなりの危険を伴う。それでもパウロ達はそこに行こうと決意する。ここに教会のものの考え方がある。 教会のものの考え方。パウロの二つの行為。マケドニア伝道割礼の実施ここに共通しているものは何か。近づいている。 パウロから見れば割礼を重んじるユダヤ人は頑ななものとしか思えなかったはず。にもかかわらずその者たちを思いはかり割礼を行う。頑ななものたちに近づく。マケドニア危険な所。そこに赴く。近づく。 伝道は教会に招くことと私たちは言う。それは間違いではない。ただ、教会に周囲のものを近づけることを伝道と考えるなら、それは教会のものの考え方とは違ってくる。クリスマス12月25日クリスマスツリーこれらは異邦人世界と近づいて定着したもの。主イエスは、神の御心は、神がこの世界に降るということ。近づく神。それが福音だと私たちは信じ、告白をしてきた。 教会のものの考え方。近づく。仕える。愛する。私が動き出すことが常にその礎にある。新しい年、この世界へと、すべてのものへと近づいていく「愛」の奥深さを知る神の御心を知る神を知る年としたい