本多記念教会

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神に仕える

2019年1月13日伊藤大輔牧師使徒言行録16章11-24節 永遠の命を得るにはどうしたらいいのか。本日は本多記念教会創立記念日。教会は永遠の命を知るもの。その永遠の命はどのようにすれば得られるのか。主イエスはこの問いに向かい「神を愛し、隣人を愛せ」を実行せよ、と告げる。だが問いは続く。隣人とは誰か。わたしたちは隣人をどのように選定すればいいのかと考える。隣人はどこに、誰なのか。主イエスの「良きサマリア人の物語」。傷を負った者の隣人となったもの。手当をし、介抱をしたもの。その者が隣人であると誰もが分かる。そして主はこの物語の最後に勧める。「行って、あなたも同じようにしなさい」。隣人は、どこにいるのか、誰なのか。探すのではない。待っているのではない。出かけて行く。なりに行く。近づいて行く。エルサレム会議の決定、パウロ自身も賛成していたこと、異邦人には割礼は必要ない。その決定がなされたすぐ後に、テモテを弟子にするためにパウロは割礼を授ける。周囲のユダヤ人のことを思って、彼らを大切に思って、自分の主義を捨てる。近づいて行く。出かけて行く。パウロは「マケドニアに助けに来てくれ」との願いを夢で見る。神の言葉だと確信し出かけて行く、近づいて行く。パウロの言葉を喜ぶものも現れたが反抗するものも出てくる。鞭で打たれ、投獄もされた。出かけて行って、近づいても、楽しいことばかりではない。つらく、悲しいことを近づいたばかりに経験する。近づいて、出かけて行って何になるのか。人の思い、経験からでは納得のいく答えは得られない。アブラハムも、ヤコブ、ヨセフ、モーセも神が共にいながら苦難と直面する。神が経験させる。神は人の予定調和の神ではない。つらい現実があるとしても「行って同じようにしろ」と神は語る。何が起こるのか。出かけて、近づいて、教会が生まれ、伝道が始まる。出かけて近づいて日本にも福音が伝わり、教会、学校が生まれた。近づいて本多記念教会も生まれた。2000年、教会はただひたすらに出かけて、近づいている。国家、企業、組織体、数百年で入れ替わる。宗教は1000年を優に超える。人の予定、計画が、かなわなくとも神に仕える。そうして歩んできた。永遠へと至る道。愚直に歩む。それが教会の歴史。これまでも、これからも教会はそうやって歩んでいく。

その先へ

2019年1月6日伊藤大輔牧師使徒言行録16章1-10節新しい年を迎えました。新しい年、私たちは今年がどのようになるか想像を働かせます。抱負、計画、予定を思い描きます。教会の未来への考え方。教会のものの考え方。どのようなものか。聖書からその考え方を聞き取りたいと思います。パウロは異邦人世界へと伝道に赴きます。その際、テモテを共に連れて行きたいと考えます。そのためユダヤ人たちを気遣いパウロはテモテに割礼を授けます。この直前、エルサレムで開かれた会議では、異邦人世界と教会との付き合い方の取り決めがなされた。そこではわずかな食物規定を守るだけが進められ、律法の厳守も、割礼の執行も含まれてなかった。ところがその会議の直後パウロは割礼を行う。ここに教会のものの考え方がある。 パウロは夢の中でマケドニアの嘆きを聞く。マケドニアそれは今までの所とは異なりローマ帝国の主権が明確になっているところ。ローマと異なる「神」、これを持ち込むことは反発は当然のこと、かなりの危険を伴う。それでもパウロ達はそこに行こうと決意する。ここに教会のものの考え方がある。 教会のものの考え方。パウロの二つの行為。マケドニア伝道割礼の実施ここに共通しているものは何か。近づいている。 パウロから見れば割礼を重んじるユダヤ人は頑ななものとしか思えなかったはず。にもかかわらずその者たちを思いはかり割礼を行う。頑ななものたちに近づく。マケドニア危険な所。そこに赴く。近づく。 伝道は教会に招くことと私たちは言う。それは間違いではない。ただ、教会に周囲のものを近づけることを伝道と考えるなら、それは教会のものの考え方とは違ってくる。クリスマス12月25日クリスマスツリーこれらは異邦人世界と近づいて定着したもの。主イエスは、神の御心は、神がこの世界に降るということ。近づく神。それが福音だと私たちは信じ、告白をしてきた。 教会のものの考え方。近づく。仕える。愛する。私が動き出すことが常にその礎にある。新しい年、この世界へと、すべてのものへと近づいていく「愛」の奥深さを知る神の御心を知る神を知る年としたい

導かれて

2018年12月30日伊藤大輔牧師マタイによる福音書2章1-12節星に導かれ、占星術の学者たちは生まれたばかりの主イエスのもとに導かれてやって来る。クリスマスの一場面。この物語は私たちに何を語っているのか。占星術の学者、原文では「マギ」となっている。ペルシャの方から来た宗教の専門家とも考えられる。彼らは、星に導かれ旅をしてきた。もう一人の登場人物、ヘロデ王。彼もまた宗教の指導的立場のもの。一国を統治するもの。その王に向かい旅をしてきた学者が訪ねる。「新しい王はどこか」ヘロデの自己確認が崩れる。私はもはや王ではないのか。少なくともこの異国の者たちは自分を王とは思っていない。 異国からの学者。一国の王。この両者はクリスマスの内容を語っている。 占星術の学者、星に導かれ旅をしてきた。星、空に輝くもの、遠くのもの。旅をしてきたもの、遠くから来たもの。学者たちは「遠く」を体験している、「遠く」を知っている。ヘロデ王。彼は自分の立場に執着している。やがて彼はイエスと同年代の赤子をすべて殺す。近く、自分、そこに心が奪われているもの。 救いと出会う。神と向き合う。それはどのようにして起こるのか。物語は語る。遠くを見ているもの。遠くへと進むもの。「遠く」を引き受けるものがクリスマスと出会う。ザカリア、エリサベト、子供は遠い過去のものと思っていた。マリア、ヨセフ、子供は遠い未来のものと思っていた。遠くにあると思っていたものがここにある。クリスマスに生まれてくる者の名前、その名はインマヌエル「神われらと共に」。遠くにいるものと思っていた方がここにいる。 人の希望、夢、願い、遠くにあると思っているもの、あきらめよう、忘れようとしてるもの。そばにある。神が共にいる。すべてが近い。すべては備えられている。 近くを見ても見えないものがある。神の備え、計画、まことの喜び。近くを見ても、怯えと執着しか生まれてこない。遠くを見つめる。遠くに思いをはせる。必要なもの、大切なもの、喜び。見えてくる。ここにある。恵みの内に私はいる。

夜の出来事

2018年12月23日伊藤大輔牧師 ルカによる福音書2章8-21節 夜を私たちは知っている。光が見えない。希望が持てない。未来が分からない。私たちは夜を知っている。ルカ福音書が記された状況、それは夜と考えられる。ローマ帝国との戦争に敗れ、神殿は破壊され、国を追われる。進むべき未来には何も見えない。闇の前にただ立たされている。羊の群れの番をする羊飼い。街、明るさから遠く離れ、闇の中にいる。守るべき羊は獣たちの格好の餌。この餌を獲得するためにいつ自分たちが獣に襲われるのか、恐怖と共に夜を過ごす。羊飼いは、イスラエルの民と重なっている。そして私たちと重なっているのかもしれない。夜に人はいる。ルカ福音書のクリスマスの記事は洗礼者ヨハネと主イエス、それぞれの家族の話を重ねて語られる。ユダヤ教の預言者ヨハネ、過去を象徴するもの。これから生まれる主イエス、未来を担うもの。過去と未来を象徴する二つの家族に共通して起こったことは「沈黙」をすること。現実の中で、希望が見えない中で、夜、人がすることは何か。私の言葉を捨てる。何かにすがって未来への足がかりを得ようとするのではない。捨てる。黙る。
 闇の中、何も見えない、何も聞こえない夜にいる羊飼い。黙って夜に怯えていたものは出会う。天使が現れ、語りかける。「恐れるな」。 メシアは飼い葉桶の中にいる。飼い葉桶。家畜の餌皿。メシアは皿の上にいる。 夜、闇、その現実の中で人の望みは何か、明日への糧は何か。聖書は語る。神だ。神を食べて明日へと進め。 神闇の中で共に戦ってくれる頼もしい仲間ではない。闇よりも大きい闇をも支配するその方は食べ、その方によって生きる。私は神でできている。私は神と共にある。 夜、人は不安になり、確かなものを求めようと探し回る。人の知恵、私の力で抗えるほど闇は小さなものではない。私を捨てる。黙る。主イエスも十字架の前で黙られたように私も黙る。「恐れるな」神が共にいる。約束の言葉がある。信じる。闇はまだ私の前にあるのか。 

喜びのおとずれ 

2018年12月16日森下滋伝道師ルカによる福音書2章1-7節 私たちが生きていくために必要なものは何か。多くある中で一番強いのは金であろう。そして金を出しても手に入れられないものの代表に愛がある事を我々は知っている。愛の背景には自尊感情が存在する。自尊感情が低いと他者を愛する事は難しい。どうやったら変わるか。他者に愛され、評価される事による。我々はどうやったら日々喜びの内に生きていけるのか? イザヤ8:23は「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」と預言する。ルカに拠ればヨセフはガリラヤからベツレヘムに向かい、マタイに拠ればベツレヘムからガリラヤに向かう。二つの福音書の記述は矛盾している。しかし共通点はヨセフはガリラヤに居た時期がある事だ。 4節でヨセフはナザレからベツレヘムは上った。ガリラヤからユダヤへ、異邦人の地域からユダヤ人の神殿が有る地域へ。6-7節でイエス様が誕生する。泊まる場所は無かった。この事から主イエスを貧しさと差別の中に生まれた当時の闘士とのみ捉える事には危険性がある。 今日の箇所の一番の謎は、ヨセフは何故ガリラヤからユダヤに向かったのかという事である。聖書学の解釈手法を用いると、ギリシャ語原典において1節と6節を外枠としたキアスムス(交差法)が認められる。1節と6節の始めの言葉は「それは成った」(egeneto )である。1節では勅令が出て、ローマ帝国の支配が成った。6節では「今や彼らがいる内で、彼らは満たされた、赤子を産む事の日々が」成ったのである。ルカ1:34でマリアが「わたしは男の人を知りませんのに」と述べるが、6節においてヨセフとマリアは共に満たされた。霊によって。その喜びは7節のように、貧しさの内でもあせる事の無い光である。 そしてここに挟まれた交差の中心は、4-5節の「ナザレの町を出てユダヤの中へ、ベツレヘムと呼ばれるダビデの町の中へ、彼(ダビデ)となる事を通して、ダビデの家と父祖から」(私訳)である。イエスはダビデである。イスラエルを建てる王。ユダヤにイスラエルが建つ時、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。私たちもこの時、神では無い全ての支配と障害から解放される。私たちが支配されているものから真の解放をもたらす主イエスがお生まれになった。そして今日も主イエスは私たちを招いて下さっている。 

黙る

2018年12月9日伊藤大輔牧師ルカによる福音書1章57-66節ルカによる福音書は主イエスと洗礼者ヨハネそれぞれの誕生を関連付けて物語を進めていく。ヨハネの両親、ザカリア、エリサベト夫妻彼らは歳をとり子供ができる状況ではなかった「大切のもの」は過去にある「今」は何もない空白の時間一方の主イエスを宿したマリア子供の誕生、「大切なもの」それは未来の話今ではない今は空白の時  ルカによる福音書は戦争 敗北を経験した状況下で記され 読まれたもの「空白の時間」それは彼らの実体験ではなかったのかかつては良かった遠い将来には状況が変わっているはずだと漠然と希望があるだが今は何もない今は空白 ザカリアは子供の誕生が信じられず ガブリエルの言葉を疑うその結果 口がきけない者にされてしまう一見 罰のようにも読み取れるが果たして聖書が語っているのはそれだけなのか ルカ福音書だけにある物語「マルタとマリア」の物語忙しく働くマルタ何もしないでイエスの前に座り話を聴くマリアマルタはマリアを叱責するが主イエスは逆にマリアを褒める何もしない黙って座っているそれが「たった一つの大切なものだ」と イエスの母マリアもガブリエルから受胎告知の時「お言葉通り この身になりますように」と答えている「もう何も言わない」「黙る」という覚悟の表れ 主イエスの十字架も「私の思いではなく、父の御心がなりますように」によって実現したもの主イエスも黙られた黙るそれは敗北の姿勢ではない主体的決断の表れ愛の表現敗戦下のイスラエルは黙るしかなかったザカリアも言葉を奪われたそれは屈辱の時ではない黙る人に必要な時神の言葉を待つ時神を愛する時私たちにとって最も大切だが忘れてしまうもの黙る恵みの時沈黙の力聖書の中だけのことではない私たちとても同じ言葉を捨てるその勇気が神の大きな恵みに出会う入り口マリア ヨセフザカリア エリサベト皆 黙ったそしてクリスマスが始まっていく 

信じる

2018年12月2日伊藤大輔牧師ルカによる福音書1章39-45節待降節が始まった。今年もクリスマスの記事から私たちの備えを始めてきたいと考える。今日の聖書はエリザベトとマリアが出会う場面。この二人には共通した問題がある。自分の意図と違うタイミングで子供を宿している。エリザベト、ザカリア夫婦。この夫婦の紹介の文章は読者にもう一つの家族を連想させる。アブラハムの家族。アブラハムは12部族の先祖。アブラハムを連想させるザカリア、エリサベトはイスラエルを、旧約聖書、これまでの歴史を象徴している者なのかもしれない。自分たちの希望、未来すでにあきらめていた。何も期待をしていなかった。エリサベトは妊娠が分かると五か月も身を隠した。喜んではいない。戸惑っている。受け入れられないでいる。現実が受け入れらない。目の前のものが喜びとは信じられない。それはイスラエルの歴史がそうだったのではないか。私たちの日常もそうなのではないか。イスラエルは神の言葉を携えた預言者を拒絶し、神の子を殺した。私たちも自分の直面している現実が幸せとは程遠いものと感じられている。なんでこんものが私の前にあるのか。結婚をしていないのに子供を宿してします。なんでこんなものが私の前にあるのか。マリアとて思いはエリサベトと同じ。ところがマリアは、その現実を神の御心として受け入れる、という。そのマリアがエリサベト訪問するのが本日の聖書。マリアの訪問を受けたときエリサベトに思いもよらないことが起こった。マリアの声を聞くと胎の子が喜び踊る。 なんでこんなものがわたしの前にあるのか。私たちには立ちはだかる分厚い壁、深い闇に覆われているかのように思える現実がある。戸惑い、怒り、隠そうと、捨てようとする。それも闇への対処の一つかもしれない。マリアのとった行動はそれを受け入れる。それを神の計画だとする。そのマリアと出会ったとき「なんでこんなもの」が喜び踊る。闇は拒絶するものなのか。闇は神がかかわれない、神よりも偉大なものなのか。聖書の語る世界は違う。闇は人が思い込んでいるもの。闇にも神の恵みが隠されている。神の喜びが宿っている。「なんでこんなものが」。それを受け入れて主イエスは世に来た。教会が生まれた。今日のキリスト教がある。「なんでこんなものが」それを信じ受け入れる未来への大きな一歩が始まる。

美しく仕立てる

2018年11月25日伊藤大輔牧師 創世記30章1-8節 ヤコブイスラエルの基イスラエル12部族はヤコブの子供達今日の聖書は、その12人の子供たちの誕生の様子を記すもの。子供の誕生それは喜びに包まれて祝福の内に起こるものと想像する。ところが、イスラエル12部族の誕生は私たちの想像とは違う空気に包まれている。ヤコブには二人の妻がいた。レアとラケル二人の姉妹が彼の妻。ヤコブは彼女たちの父親、ヤコブにとっては叔父のラバンの願いで二人を妻とすることになった。この二人の妻との間でヤコブは12人の男の子をもうける。当初、妹のラケルには子供が与えられず、姉のレアにばかりが出産する。また、自分たちに子供ができない気配になると、それぞれの側女を差し出し、子供を増やしていく。ある時は貴重な食物「恋なすび」と交換にヤコブは二人の妻の陣営を行き来する。姉妹の競争、争いの中で12人は生まれてくる。
 聖書は戦争、敗戦をその成立の背景として持っている。その状況でこの物語を読んだ読者たちは、ヤコブを単なるイスラエルの昔話としては読めなかったのではないか。二つの陣営の間で翻弄される。大きな大国、エジプト、バビロニア、その狭間に立たされたイスラエル、自らの今と重なったのではないか。
 ヤコブの家族、それは争いの家族。イスラエルという国の現在。どちらも争いの中に置かれている。そして不本意な今に置かれている。
 私たちもまた希望と違う、予定と異なる、不本意な現在に置かれることがある。不本意な12人。聖書はこの12人がイスラエルの基となったという。世界の礎になったという。ヤコブの家族。彼らは神から褒められることは何一つしていないと言ってもいいほど利己的な振る舞いを繰り返す。ご褒美で12部族になったのではない。神が決めていたからなった。
 不本意な今、否定したい過去、後悔の中に私たちはいるかもしれない。その私に、この物語は語りかける。どんな今も、どんなものも、必ず何かの始まりになっている。未来に必要なものになっている。神は決めている。私を愛すると。世界を、すべてを愛すると。神の美しい仕立ての中に今の私はいる。 

立ち上がって、行きなさい

2018年11月18日嶋貫佐地子牧師ルカによる福音書 17章11-19節  ひとりぼっちはつらいものだ。 しかし考えるに人間の一番の孤独は神を見失うことである。 これはそんな人間の「孤独病」の癒しである。 重い皮膚病を患った十人の人が、主イエスをはるか遠くに立って出迎えた。 「どうか、わたしたちを憐れんでください」。 それは大きな声だった。
 彼らは汚れた者とされていたから、人に近づくことが許されなかった。宿営の外に独りで住まわねばならず、彼らはサマリアとユダヤの境に追いやられていた。 主は彼らを憐れみ、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは主のお言葉だけを信じて歩き出したが、その途中、病が癒された。これで祭司に病が癒されたことを証明してもらえれば、彼らは普通の人として生きていかれる。だがその中の一人が、自分の癒されたのを見て、祭司の所に行く前に引き返し、大声で神を賛美しながら主イエスの許に帰って来て、足もとにひれ伏し、感謝した。 その人はサマリア人だった。 主は言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 神を賛美するために帰ってきたのは、あなたひとりだけか、と。 他の九人はおそらくユダヤ人であった。彼らは感謝よりも自分の生き場所を優先した。 
しかし一人が帰ってきた。この人はどんなことよりも溢れる感謝を止められなかったのだ。 主はこの人に、お心を打たれたのではなかろうか。だから他の九人はどこにいるのかと悲しまれた。そしてこのサマリア人を愛し、喜ばれた。主はその人に言われた。 「あなたの信仰があなたを救った」。 イザヤ書第53章の苦難の僕は主イエスを歌う。「彼が担ったのはわたしたちの病」。その症状はこの重い皮膚病を思わせる。彼は軽蔑され、やがて殺される。人間の孤独病は、この方がすべて負ったのだ。 しかしそれゆえ、彼は神からおびただしい人を受ける。 体の病が治っても、 その主の許に帰らなければほんとうの救いにはならない。 
主はエルサレムに向かわれる途中であった。 このサマリア人が、大声で神をほめたたえながら帰ってきたことが、どんなに主の慰めになったことか。
 思うに、この人はユダヤ人に軽蔑されていたサマリア人であったから、あの十人の中で、自分は癒しから最も遠いと思っていたであろう。しかしそんな自分が癒された時、この人は神を見た。自分は神に見捨てられたと思っていたのに、神は自分を捨てられなかった。その時、彼はほんとうに帰るところが見つかったのである。帰るところのなかった自分に、ほんとうに帰るところが見つかった。 神をほめたたえられたら、人は孤独ではない。 主はその人を喜び、起こしてくださる。 「立ち上がって、行きなさい。 あなたの信仰があなたを救ったのだ。」  

変えられていく

2018年11月11日伊藤大輔牧師使徒言行録15章22-35節 聖書は2000年間、読まれ続けた書物。今日読んだ箇所は使徒たちが会議を開いた場面。読みようによっては単なる会議録。ただ会議録ならば周囲の者たちが保存、時期を見て確認すれば良いもの。それが2000年、読まれ続ける。そこには会議を超えた何かが記されている。今日の私たちにも必要な何か。それを見つけることが聖書を読むということ。何が語られているのか。読み解いていきたい。会議はある衝突を契機に開かれた。主イエスはユダヤ社会の方。ユダヤ人と直面し、ユダヤ人によって十字架にかけられた。主イエスの舞台はユダヤ社会だと思われていた。ある時、ペテロに異邦人へ主イエスの言葉を伝える機会が与えられた。何も期待していなかったペテロであったが、それを聞いた異邦人が主イエスを信じると言い始める。主イエスの舞台はユダヤ社会ではなかった。もっと広く、もっと大きい。当のペテロでさえ戸惑った出来事。これを知らない者たちは「異邦人を受け入れる」などとんでもないと反対をする。ユダヤ社会の風習をきちんと踏襲するという条件を満たしてからでないと信用しないと語る。もっともな意見。これと同様、使徒言行録の最初の読者にも異邦人への拒絶感は強いものであったと思われる。聖書が成立したのは戦争の時代、しかも敗北の時。異邦人は憎むべき相手。それを受け入れるなど言語道断。聖書成立の時代も、物語の舞台の時代も教会の思いは同じ。そこで会議が開かれる。会議は衝突によって始まる。この会議の後、パウロとバルナバは衝突をする。聖書は知っている。人は社会は衝突をすると。衝突の間で開かれた会議はどのようなものであったのか。会議は結論を得た。その決議を異邦人に告げる言葉が記されている。「満場一致で」多数決ではない。衝突していたものが一つになっている。同じ想い愛し合って決めた。そもそも主イエスが伝えてくれたこと。それは何かの功績、原因によって、神から愛されるではない。神は何があろうと人を愛する。ならば何故、我々は異邦人に条件づけをするのか。愛は条件など必要としない。そういう愛を喜んできたのではないのか。教会の中で衝突があった。それは私たちも同じ。教会のみならずいたるところで我々は衝突を経験する。衝突。その中で教会が、人が、世界が一歩前進する時がある。誰かが戦いに勝利した時ではない。愛する時、愛し合う時、世界は動き出す。敗戦の中で教会が見つけた言葉。世界の底で世界を支えているもの。勝負ではない。愛2000年間、私たちが信じてきたことそしてこれからも変わらない真実 

どこまでも広がる

2018年11月4日伊藤大輔牧師使徒言行録15章1-11節本日は召天者記念礼拝。先に召された信仰の先達を覚える日。その信仰とはいったいどのようなものなのか。教会の信仰を、この記念の日に確認したいと思います。 そのために教会の歴史を振り返ります。「旧約聖書、ユダヤ教」「新約聖書、キリスト教」この二つの聖書、二つの宗教はある時をきっかけにまとめられ整えられていきました。今から2500年前、旧約聖書、ユダヤ教はまとまります。2000年前、新約聖書、キリスト教はまとまります。2500年前、2000年前、500年の開きはありますが、どちらも同じ状況を経験します。戦争、敗戦。2500年前はバビロニア帝国と戦い敗れます。2000年目はローマ帝国と戦い敗北します。敗戦。信じていたものに裏切られる体験です。土台が、底が崩れ去る体験です。私たち311の時、誰しもがつぶやきました。「神などいない」そのつぶやきは2011年が最初ではありません。イスラエルは2500年前、2000年前、叫びました。「神などいない」その状況で生まれたものが「聖書」「ユダヤ、キリスト教」です。 本日の聖書に記されているのは使徒たちが開いた会議の様子です。ただこれも記された年代、最初の読者は敗戦を経験した者たちだったと考えられます。敗戦を経験した者はここをどのように読んだのか。それが、教会の信仰とかかわるところです。 異邦人が信仰を持った。それを喜ぶのがペテロ、パウロ達使徒です。ところがファリサイ派の人々は「異邦人が私たちの割礼を 受けなければ認められない」と言います。両者はぶつかります。最初の読者にとって異邦人とは誰だったのか。彼らが真っ先に連想する異邦人、それはローマ人であったはずです。敵です。愛する国土を破壊し、家族の命を奪い去ったもの、それが異邦人、ローマ人です。ファリサイ派の主張、「価値観を共有するものでなければ信用できない」これは至極まっとうな常識的見解です。これに対し非常識なのは使徒たちの方です。敵を受け入れる。そのままで受け入れる。なぜ使徒たちは非常識な選択するのか。神がそうしたからです。神が受け入れている。神がしている。だから私も受け入れる。 無意味な体験拒絶をしたい出来事絶望しか見えないものであってもそこに神がいる。神が働き、神が語りかけ、私の決断を待っている。信仰とは何か。神がいる。どんな時にも、どんなところにも。闇の中で光を信じる。先達が守った信仰です。教会が守り続けてきた信仰です。

遠のいていく

2018年10月28日   伊藤大輔牧師創世記29章14-30節 ヤコブの物語。始めの読者はこれをどのように読んだのか。始めの読者はイスラエルの民。ヤコブは後に「イスラエル」と言われる。読者はヤコブと自分を重ねたはず。ヤコブの物語は私の物語。 そのヤコブは決して立派なものではない。母親に唆されたとは言え、家族を騙そうとしたもの。社会の信頼の基盤である家族、それを彼は壊した。家を追われ叔父ラバンを頼り、ヤコブは旅立つ。ラバンの娘ラケルと出会うと、周囲のものを無視して彼女との関係を築こうとする。また、ラバンの家に身を寄せている時も、見えないところが美しいレアよりも、容姿のきれいなラケルとの結婚を望む。 イスラエル。人々の尊敬を集めるものではない。軽率な、傲慢なもの。「それがイスラエルだ」「それが私だ」と聖書は語る。 そのヤコブがラケルとの結婚に際してラバンから約束を覆される。ラケルとの結婚を望んでいたにも関わらずレアとの結婚を強いられる。目的地にたどり着いたと思ったのにそれが遠のいていく。失望絶望。 人の目にはこれは絶望と映る。しかし、それが真実なのか。ヤコブが結婚に際して与えられたのは二人の姉妹と共にそれぞれの女奴隷。この四人とヤコブは関係を持ち子どもをつくる。それがイスラエル十二部族となる。ヤコブは想定と違うことばかりを体験する。叔父のラバンは変わる。何度も約束を勝手に変更する。人は変わる変えてしまう。 家を追われ、ラバンの街に辿り着く前、ヤコブは神の言葉 を聞く。「必ずあなたを連れ帰る。あなたに約束したことを果たすまで私はあなたを見捨てない」。神は変わらない。 叔父ラバンの約束の反故。不愉快で、想定外のこと。だが、これがあったから十二部族が生まれた。人にはつらいことでも、裏切られたことでも、神は確かな礎を据えている。人がどんなに予定を変更しても、豹変しても、神の予定に狂いは生じない。 ヤコブの物語は私の物語。私には分からなくとも、私には受け入れがたい現実であろうとも、神はそこで確かな礎、準備をしている。この先に誰も知らない、神だけがご存知の未来がある。今日の私が無駄でない、今の私とつながっている未来がある。この先に私の喜びがある。