本多記念教会

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恵みの訓練

2019年6月16日・三位一体主日伊藤大輔牧師 使徒言行録20章1−12節
 エデンの園でアダムとエバは蛇の提案により木の実を食べる。その時から人の歴史は始まった。「私には足りないものがある」「私はそれを補わなければならない」。不足への不安に脅かされ、時に戦争までも始める。人は不足を補うこと、自分を支えるものに執着する、それが全てなのか。
 教会に限らず真の宗教はこの問いと向き合っている。しがみつくものを提示し、それを「神だ」と囁くのは創世記の蛇と同じこと。神を固執、執着の対象としているものは宗教ではなくビジネス。
 使徒言行録は表面上は教会の歴史についての記述になっているがその内容は固執、執着から自由への案内。
 不足とは自分の限界を知ること。私はここまで。この先は私のものではない。世界の中で自分の境界線を見つけること、それは不足品の発見。使徒言行録20章にはパウロと同行したものたちのリストが記されている。パウロも、使徒たちもユダヤ教徒。ユダヤ教はある一面、他者を明確にする傾向を持っている。「私たちはここまで」。自国と異国、空間の境界線がはっきりとある。パウロの同行者のリスト。ここにはユダヤ以外の者もいる。こことあそこ。境界線が消えている。
 パウロが話をしている最中に眠りこけ三階から落ちた若者が出た。人々が駆け寄ると彼は死んでいた。パウロはその者を抱えて言う。「騒ぐな。まだ生きている」。決定的な不足。決定的なここまで。時間の中で人は「死」と出会う。絶対の不足。パウロは「死の先がある」と言う。パウロはこの事件の前後「パン裂き」をしていたとある。聖餐を連想できる表現。
 本日は三位一体主日。神様は父、御子、聖霊と三つのお方として世界に関わった。人の知覚では「三」。しかしその「三」を知れば知覚では獲得できなかった「一」なる神が現れてくる。パン裂き。御子イエス・キリストを食べること。それは神を食べること。空間、時間、それを包む神の中にいる。
 人は不足があると思い込み、足りないものを羅列して獲得しようと騒ぎ立つ。「騒ぐな」とパウロは言う。「生きている」。私たちは時空の世界に存在する「境界線」を超えたものを宿している。「永遠」が私と共にある。執着は必要ない。騒ぐ必要はない。聖書は世界の真のあり方を語る。宗教はこれを語り伝えている。 

突然変わる

2019年6月9日伊藤大輔牧師 使徒言行録2章1−13節
 2000年前に教会が生まれた出来事。弟子たちが集まっている所に聖霊がくだる。すると諸国の言葉で神の業を語り始める。ペンテコステに起こった出来事。
 この出来事は過去の話ではない。今日も、これからも教会が覚えていなければならない内容を持っている。ペンテコステに至る前、弟子たちは主イエスに尋ねる。「国を再興されるのこの時ですか」と。主の答えは「時期は神が定める」というもの。弟子たちのセリフは使徒言行録が記された当時の読者たちの言葉なのではないか。ローマ帝国との戦争に敗れ国がなくなり、人々は離散していく。国はどうなるのか。再建はあるのか。この「時期」への明確な回答は誰も持っていない。だが、忘れてはならないものがある。それが物語に刻まれている。
 人々が集まっている描写で「ひとつになっていた」との表現を二回用いている。様子を想像するに吹き荒れる恐怖の中で肩を寄せ合い嵐を背中で浴びながら耐え忍んでいる姿。敗戦のユダヤ人とも重なるもの。ひとつになっていると聖霊がそそがれ諸国の言葉を語り出す。肩寄せ合って内側を向いていた時から今度は外を向いて見知らぬ人々に語り始める。一見正反対のような姿が記されている。この正反対の姿に教会のあり方が語られている。
  「ひとつ」になっていた弟子達。彼らは決して仲のいい、何の気兼ねもない集まりではなかった。主を裏切ったもの、過去に傷を持つもの。お互い非難しようと思えばいくらでもできる者同士。その者達がひとつになっていた。ユダヤ教は母国語を大切にする宗教。神を、真実を知りたければ、ヒブル語を覚えて来い。その者達が諸国の言葉で語り出す。共通しているものがある。ひとつになっている弟子達。愛し合っている。諸国の言葉を語り出す。近寄る、愛し合う。教会は何を始まりに持っているのか。互いに愛し合う。そこから始まる。
 国がなくなり、この先どうしたらいいのか。未来にどうやって進めばいいのか。教会に与えられた神の道は互いに愛し合うこと。2000年前に起こったこと。2000年持続している企業、学校、国がどれほどあるのか。国を失った者達は2000年の時を進みゆく秘訣を授かった。互いに愛し合う。ペンテコステ2000年の物語。私たちもその物語をこれからも紡ぎゆく者。 

発火点

2019年6月2日伊藤大輔牧師使徒言行録19章21−40節 信仰とな何か。私たちの信仰は雪男がヒマラヤにいる。ネス湖にネッシーがいる。天に神がいる。いるかいないかわかないものを「いる」と固めることが信仰なのか。エフェソでパウロ達は暴動に巻き込まれそうになる。アルテミスを信仰する神殿の模型を作る職人たちから襲われそうになる。パウロが「神は神殿になど住まない」と語ったから。ここにも信仰が登場してくる。信仰を持った者たちがパウロを襲う。信仰とは一体何なのか。 はじめ神殿職人だけの不満であった声が街中にと広がっていく。ついには書記官までもが登場し、この騒ぎは収める。書記官は語る「パウロ達は法に触れることは何もしていない。法に触れるのはむしろ騒いでいるあなた達だ」と。ローマの法は教会を味方している。 この使徒言行録を最初に読んだ読者たちはローマ帝国との戦争に敗れた者たち。この後、自分たちに何が起こるのか不安の中にいた。その者たちがこの物語を読む。ローマの法が教会を守る。これが実際の記録かどうかは定かではない。ただこの物語はその読者たちに希望を与えたのではないか。不安の対象ローマ。その法は教会と敵対しない。更に言うならば、ローマの法にまで神の御手は及んでいる。不安と思うところにすでに神の支配はある。神がかかわっていないものなど何一つない。 アルテミスを拝んでいた者たち。彼らは怒り出す。自分たちの予定と違うことが起ころうとしているから。予定、人の想像、私の幸福。こうでなければならない。神を私の予定に中に閉じ込めようとする。神殿を作りたい人の心理。の予定に付き合ってくれる神様。それを偶像と言う。偶像にすがることをユダヤ・キリスト教は信仰とは呼ばない。どこでも、いつでも神はいる。人の予定の外にも神はいる。 発火点。臨界点。状態、様相が相転移してしまうポイント。ここからは違う。「怒り」を持つものは相転移のポイントを持っている。信仰は相転移を持たない。「死」という相転移。教会の言葉は永遠の命。何も変わらない。死を経てもどこまでも続く。死にも支配されない。その平安を信じる。ユダヤ・キリスト教は2000年以上、その信仰が人を生かすものと大切にしてきた。信仰。今日のわたしをも生かしていく。

不必要

2019年5月26日伊藤大輔牧師創世記32章2-22節旧約聖書は今から2500年前に成立した書物。バビロン捕囚、敗戦の体験と結びついた物語。家を追われたヤコブが自分の故郷に帰る。捕囚の民はここから何を読み取ったのか。ヤコブは恐怖と直面をしている。ヤコブが怒らせた兄エサウ、無事で終わるはずがない再会を迎えようとしている。 大事なものと直面しなければならない。避けては通れない。だがこちらに勝算はない。困惑、恐怖、絶望。私たちにも同様の経験、予測がある。避けて通れないものと直面する時、人は何を準備したらいいのか。 ヤコブは嘆き神に祈る。「あなたが約束したことだ」と。ヤコブは信仰がある。聖書の「信仰」は万事解決する特効薬ではない。「信仰」があっても怖いものは怖い。嫌なものは嫌。信仰がある故に苦しむこともある。ヤコブは恐怖への備えをする。家畜の群れを二つに分けエサウに襲われてもすべてを失わないように保険をかける。また自分に先立ち財産を三回に分けて兄に差し出し怒りを和らげようとする。出会う前も、出会ってからも、何が起こってもいいように万全の準備をする。自分の力で自分を守ろう。自分の力に依存する。依存によって未来を獲得しようとする。物語の結論はエサウはそれらを受け取とろうともせず、ただ弟ヤコブの帰宅を喜ぶ。何も必要ではなかった。解決は「依存」で導き出すものではなかった。神の約束通りのことが起こる。物語としてはそれで結構。だが、この私と物語はどう関係するのか。ヤコブに起こったことはヤコブだけのことではないのか。 物語は捕囚と結びついている。ヤコブが神とした約束、「家に帰れる」これは捕囚の民の願い。この物語は告げている。私の本当の願い、希望、それを願う前に神は準備している。人は呟く私の願いは祈ってもかなわなかった。だとしたらそれは私の「本気の願い」ではないから。はやりや風潮で生じた作り物の願い。人がしつらえたものに神は付き合わない。本当に欲しいもの。本当に行きたいところ。無理だとあきらめて、忘れて、代用品で誤魔化し、蓋でふさいだもの。それを思い出す。それを願う。実現する。世界はそういうふうに出来ている。そういうふうに神は造っている。心配、恐れ、それへの準備。本当の願いなら何もいらない。神が仕上げる。2500年前以上前から語り継がれている世界の秩序。

古い人、新しい人

2019年5月19日森下滋伝道師士師記16章15-22節 コロサイの信徒への手紙3章5-11節
 サムソンは自分の秘密をデリラに明かしてしまった。神が与えてくれた力の秘密を。神との間の約束を破る私達も力を失う。何故秘密を漏らしてしまったのか。自分の中で一番重要なのは神ではなく女性であった。 コロサイ3:5でのみだらな行い、ポルネイアンとは1:21での使われ方、即ち神を知ろうとしない事を悪業と言ったのとは違い、直接的な悪業を指している。パウロはそれらを死に追いやれと勧める。  現在の世の中を見ると、何かをすれば幸せになれると説く類の事柄がいかに多いことか。断捨離、パワースポット、風水など。これらは全て、願う自分、参与する自分が中心であり神が中心ではない。幸せを願う事が悪いのではなく、貧欲、即ち富に対する過度な欲望を抱く事は偶像礼拝である。 パウロは1コリ10:23で私達には「すべてのことが許されている」と告げ、続くv24で「他人の利益を追い求めなさい」と語る。矛盾していないか。私達は自分の利益と他人の利益が対立する時に選択をしなくてはならない。私達は神の怒りの対象である事を忘れていないか。  私達は口から出る恥ずべき言葉を捨てるのだ。それは人を虐待する。この教会の中にもその様な言葉が飛び交ってはいないか。私達は古い人を行いとともに脱ぎ捨て新しい人になった。造り主の姿に倣う新しい人へ。それは神と共に生きる事。古い人を主イエスが十字架で裸で恥ずべき死を遂げて作り変えて下さった。神の力が一番働くのは私達が罪に飲み込まれようとするその瞬間だ。そして例え罪に飲み込まれても神の力は働き続ける。サムソンの髪はまた伸び始めた。
 私達はまだ神よりも自分を愛するのか。新しい命の衣が目の前にあるのに、古い衣を着続けるのか。神の約束を信じるなら私達の中に罪意識はないはず。 「恐れることはない。ただ信じなさい」マルコ5:36 

つながっている

2019年5月12日・母の日伊藤大輔牧師  使徒言行録 19章11―20節
 母の日。1908年、アメリカ、ウェブスターでアンナ・ジャービスが母を偲んで教会でカーネンションを配ったことが始まりとされている。亡き母を思う。母の守り、愛。多くの者が母から受けたものを思い出し、これに共感する。無条件に大切にされた経験。母の姿を通し、神の愛、広さへと思いを馳せる。エフェソでパウロは人々を癒し、悪霊を追い出しと次々に不思議な業を行う。これを見ていた祭司の息子たちが真似をする。「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と。ところが悪霊には全く効果がなく逆襲にあう。ユーモラスな物語であるがこれは私たちに何を語っているのか。
 人の不安、心配。それを解決した事例がある。発明、発見、思考の転換。それを知ると真似をしたくなる。成功者にあやかりたい。誰しもが思うこと、どこにでもあること。祭司の息子たちがしたことは特別なことではない。日常のこと。だが聖書はそれはかえって悪霊に襲われる、問題の増殖にしかならないと言う。ならば問題を解決した主イエス、パウロは私たちと違う特別な存在なのか。パウロの時代以後はただ苦しみに耐えるしかない時なのか。
 祭司の息子たち、彼らは問題を解決するにあたり試みたこと。「パウロが伝えているイエスによって」。パウロに、イエスに頼っている。依存し、すがり、問題を解決しようとしている。パウロはどのように悪霊を追い出していたのか。今日の聖書の書き出しは「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」。業を行った主語は「神」。神がなす。人が、私が大問題と直面すれば無力な私は何かに頼らざるをえない。問題の解決を行うのは誰か。神が行う。
 この事件を経験したものたちが「書物を燃やした」とされている。書物、人の言葉、人の知恵。誰しもが頼りにするもの。それを燃やす。依存で問題に対処するのではない。信じる。待つ。耐える。希望を捨てない。神の愛がいつでも変わらず私を包んでいる。
 母の日。大きな愛に育まれている時母の他に必要なものを求めたりはしなかった。その経験は、神を信じる時に思い出す必要のあるもの。大きなものに包まれてる。大きなものが私を守り、導いている。何にも頼らずとも私は進める。母の日に改めて覚えたい自らの姿。 

予定外

2019年5月5日伊藤大輔牧師  使徒言行録 18章18節―19章10節使徒言行録、教会の物語。私たちの教会とも重なる物語。雄弁家アポロの登場。このアポロは第二コリントにも登場する。パウロのコリントの教会を励ます言葉の中で。あなたちは「パウロに」「アポロに」などと言っているが、それは教会の言葉ではない。神が仕上げる。それを忘れてどうする、という件の中で登場する。アポロはパウロと並び称されるほどの実力のあるもの。教会の力となっていた。そのアポロではあるが、彼は肝心のことを知らないでいた。洗礼はヨハネのものと思い込んでいた。イエスの名による洗礼がある。聖霊が下る洗礼がある。自分の悔い改めのしるしとしての洗礼だけでなく、神の命が直接宿る洗礼がある。アポロはそれを知らない。
 真面目な信仰がある。本気で神様を大切にしているのはよく分かる。誰もそれに異論はない。それれでも大切なことがわかっていない。何が正しく間違いか、その基準を設定することは簡単ではない。少し異なる言葉、自分たちの大切にしているものと違う言葉に出会うと私たちは不安になる。予定外の言葉。正当な出自でないもの。そのものとの直面に人は緊張を覚える。聖書は予定外の現実と直面していた。戦争、敗北、国土消失。予定外の現実との直面で何が起こったのか。ヨハネの洗礼しか知らなかった者たちが主イエスの何よる洗礼を受けた、聖霊を受けた。落ち着くべきところに落ち着く。
 人は不安になり何かにすがる。パウロについたり、アポロについたりする。どれもが教会のあり方ではない。世界の本当の姿をみてはいない。行くべきところにちゃんと行く。それが教会の結論、世界のあり方。どこにその証拠があるのか。私たちも呟きたくなる。だから信仰が求められている。私たちの経験から言えば、予定外の者は排除するが正論となる。しかし、世界は私たちの経験を超えて広く、どこまでも続いている。神の予定は更に大きい。行くべきところにいける。敗戦の只中で教会が見つけた世界の現実。神の言葉。教会の物語は私たちと重なる物語。この世界と重なる物語。世界は人の知恵で進むのではない。神の御手の内に行くべきところへ向かっている。信じる。教会はその姿勢を表す使命を担っている。 

過去の整理

2019年4月28日伊藤大輔牧師 創世記31章43−54節ヤコブは兄エサウの受け継ぐべきものを奪う。自分にないもの。足りないもの。それを奪う。エデンの園のアダムとエバ。蛇に「お前たちは不十分」と吹き込まれ神との約束を破ってしまう。自分は不十分、それゆえ執着、獲得を実行する。その結果、アダムたちは楽園を追われ、ヤコブは家を出なければならなくなった。人の姿がここにある。人は本来の場所を執着によって失う。本来の場所、どのようにてして人は帰ることができるのか。物語はヤコブが家に帰る決心をした場面を迎えている。ヤコブは叔父ラバンの家を後にする。ラバンに気が付かれないように家を出る。何度も約束を破られてきた。ラバンとの交渉の余地はないものと判断し密かにヤコブは一家で逃げ出す。その際、妻のラケルが父ラバンの「守り神の像」を持ち出す。ラバンはヤコブ一家を追跡しついに捕える。「家に帰ることは良いとしても『像』を盗み出したことはまかりならん」とヤコブに詰め寄る。何も知らないヤコブは「像」を自分たちが盗んだのならどのようにしてもかまわないと反論する。結果、何も見つからずヤコブはラバンから逃れることに成功する。このラケルの行動は物語の中でどんな働きをしているのか。ひとつの推測を試みてみる。ラバンとラケル、父と娘。お互いのことをよく分かっている。ラバンは「像」を盗み出したのはラケルだと気が付いていたのではないか。ラバンが追い付いた時、「像」を差し出せばラケルは父の所に帰ることができる。帰りたいとの意思表示になる。ラバンはラケルの天幕で「像」の捜索を始める。そこでラケルは「像」を隠し通す。父と別れる。夫ヤコブと共に行く。その現実をラバンは引き受けヤコブと契約を交わす。契約の地の呼び方でラバンとヤコブは異なっていた。だがラバンがヤコブの呼び方を了承する。 人はどのようにして本来の場所に帰れるのか。ラケル、ラバンのやり取り、それをヤコブは何も知らない。元の場所に、本来の私に戻りたい。神に祈る。神様と私との関係でそれをなしてくれると私たちは期待する。神の計画、神の御心。私の知らない所でも進められている。私が見えるところ、そこでは何も起きていないかもしれない。予定と反対のことばかりが起こっているかもしれない。だが見えないところで守られている、支えられている。私は気づいていないが、私は何も不足していない。帰る。到着する。その旅はすでに進んでいる。見えない神の業に守られている。

永遠の命

2019年4月21日 イースター伊藤大輔牧師 ヨハネによる福音書20章1—18節「婦人よ、なぜ泣いているのか」。墓で泣き崩れるマリアに声がかけられる。マリアの前から、後ろから同じ言葉がかけられる。ヨハネ福音書は仕掛けを潜ませている文学。「時間」「空間」にも独特の考えを持っている。時間は過去、現在、未来と異なるものと人は認識する。空間も「ここ」「あそこ」と区別をし把握する。ヨハネは時間も空間も区別をしない。「今」「ここ」あたかもそれが「全てだ」と言わんばかりの世界観を提示する。マリアに「前」と「後」から同じ言葉が語られる。前も後ろも同じ。いつでも、どこでも。世界を語っている。世界中どこでも語られる。「なぜ泣いているのか」。言葉を替えるなら「泣いているのはおかしい」。世界は泣くところではない。
 主イエスが十字架にかけられ殺された。正義が踏みにじられた。優しさが無意味とされた。愛にはなんの力もないとされた。正しいことが何一つ通用しない世界。泣く以外に何ができるのか。マリアの涙は誰にでも共感のできる涙。世界は泣くところではない。世界とは何なのか。
 甦った主イエスがマリアに語りかける。「弟子たちに『あなたがたの父、あなたがたの神のところに行く』と伝えろ」と。「神、父」を「あなたがたの」という言い方をしているのは福音書中ここだけ。それまでは「神、父」はイエスの所有格で語られていた。
 ローマ帝国との戦いに敗れ全てを失い離散するユダヤの民。信じていたもの、期待していたもの全てが失望に変わる。泣いて何が悪い。マリアの涙は民の涙。神は我らを離れ、遠くの誰かを守っている。もともと我らは神に愛されたことなどなかったのかもしれない。神は彼方のもの。神は私たちとは無関係なもの。ヨハネ福音書はイエスの言葉として語る。「神はあなたの神」。復活のイエス、死、終わりに支配されることのないイエスが「神はあなたの神だ」と言う。ならばこれは永遠の約束。神とわたしは離れない。思い通りにならない事、挫折、不条理、絶望、これまでも、今も、これからも起こる事。そのどの時も神は変わらずあなたの神、わたしの神。聖書の民は絶望の中でその信仰によって新たなる歩みを始めた。世界は泣くところではない。彼らだけの経験ではない。わたしもまた「わたしの神」と共に未来へと歩みを始める。  

神はいらない

2019年4月14日伊藤大輔牧師
         ヨハネによる福音書19章1—19節
 主イエスが十字架にかかる。なぜかけられたのか。人々の訴え「神の子と自称した」「王と自称した」から。しかしそんな発言をしたものはいくらでもいた。そもそもイエスはその発言をしていない。なぜ十字架にかかったのか。祭司長がピラトに詰め寄る最後の言葉「私たちには皇帝の他に王はいない」。この記述は福音書が記された時代を映し出す言葉ではないのか。ヨハネ福音書はイスラエルがローマ帝国に亡ぼされた後に記されたもの。ユダヤ教を、その後のキリスト教を信じていた人々彼らは期待していた、守られるのを、戦争に勝利するのを。しかし殲滅された。家族を、国土を奪われた。主イエスは確かに奇跡を起こし、人々を救った。だが、その人数は何人なのか。国民の何割なのか。ほとんどの人にとっては関係がない。それ故、多くの者は思ったはず「どうして私は助けてくれないのか」。神はなぜ私を助けてくれないのか。イエスの周辺にいた人々、敗戦を経験した人々、同じ思い。「皇帝の他に王はいない」。言い換えればこうなる。「神はもういらない」。 人はなぜ神をいらないと言うのか。私の中に神のイメージがある、神への期待がある。それが叶わなければ、予定と違えば「いらない」と言う。ピラトは「お前は皇帝の友ではない」と言われ慌てる。ペテロは助かるために「私はイエスの弟子ではない」と言う。みんな自分を表す言葉「私」という主語を説明する述語に必死になる。主語「私」「私たち」「世界」「未来」そこに続く述語を皆準備している。その述語の獲得のために、幸せのために努力をする。日本の繁栄世界の安寧日本、世界、この主語に理想的な述語を収めるため働いてきた。だがその現実は環境破壊、戦争の繰り返し。人は述語を求めると破壊を始める。遠くの何かを、誰かを破壊する。やがて破壊は近づいてくる。私たちへ、私へ。歴史の中で何度も経験してきたこと。遠くの神を十字架につける。私を十字架につける準備を始めている。人は述語を求めれば破壊を始める。主イエスはご自分のことを「私はある」と言う。I amと言う。述語がない。述語は人が作り出したもの。自分の分かる世界を表す言葉に主語を押し込めること。「神」「世界」「私」人の作った言葉に収まりはしない。人の思いを超えてもっと大きい。「私」に続く述語をわたしが捨てられるか。十字架の前で私たちは問われている。 

わたしはどこに

2019年4月7日伊藤大輔牧師ヨハネによる福音書18章15-27節主イエスの十字架。「神」と「人」が明らかになる場面。主イエスが捕えられた後、ペテロはひそかにそのあとを追った。大好きな先生、何かできることはないか。方策はなかった。それでも主のあとを追った。主の取り調べが行われる大祭司の中庭、そこに入った時、女中に声をかけられる。「あなたは、あの人の弟子のひとりではないのか」。ペトロは即答する。「違う」。一方、中庭ではイエスの取り取り調べが始まっていた。「お前はいったい何者なのか」。表面上はイエスが誰なのかを問いただそうとするもの。だが彼らはすでにイエスが何をし、何を語ってきたかは知っている。証拠となる情報は十分すぎるほど持っていたはず。それでも問いかける。「何者なのか」と。この取り調べの真意は何か。何がここで本当には問われているのか。「あなたは違う」。主イエスの言動を素直に見れば「来るべきダビデの再来」「メシア」と判断しても良いものがそろっている。にもかかわらず彼らはイエスに問いたかった、言いたかった。「お前は違う」「メシアでも、神の子でもない」。「違う」と言いたい、「違う」ものだとしたかった。主イエスを追いかけてきたペトロはその後、三度、自分はイエスの弟子ではないと主張する。この場面で何が起こっているのか。「わたしは違う」「あなたは違う」「違う」が人の言葉となっている。 「違う」。エデンの園で人に芽生えた世界観。「私は自分が思っているような者ではない」「神の約束も真実ではない」蛇に唆されて「違う」を人は原動力に生活し始める。主イエスが捕えられる場面、ペテロの否定の直前主は「私だ」と言う。I amと。ペトロは「違う」 I am notと言う。テキスト上は本人のセリフとして二回、語り手の言葉として一回。これは主イエスの I am の回数と符合している。人は否定をする。人を、世界を、自分を否定し、傷つけ争い、破壊していく。 それが人。神はそんな人を良く分かっている。だから、その前に告げる。I am notではなく I amだと。ペトロをその言葉に辿り着かせるために。人が、私が、世界がその自己理解を獲得するために。神は準備をしている。「人」は何者か。「否定」で考える。「神」徹底的に「肯定」をする。「肯定」、「愛」とも言う。神の愛が浸透しながら十字架の出来事は、この世界は進んでいく。